2019年12月31日火曜日

ぼくのしたいのはもう非難ではなくて




子を負へる埴輪のおんなあたたかしかくおろかにていのち生みつぐ
山田あき


みんななかよく助けあって
町も野山も海もきれいに保ち
みじかな犬や猫や小鳥はもちろん
ほかの動物も魚もいつくしんで
まいにちみんな楽しく生きていこう
…と子どもの頃に教えられたし
そうすべきだと思ったし
そう努めていこうと思ったので
世の中を見ているのがぼくにはつらい
ずっとつらかったしいまもつらい
いやいまはもっとつらい
困っている人や苦しんでいる人を
どうしてすなおに助けられないのか
みんなのたくさんの知恵をあわせて
どうして問題を解決していけないのか
だれもが不安に思わない世の中を
どうしてまっすぐに作っていけないのか
その理由もたくさん見聞きしてきたけれど
それら理由をもっともだと聞き続けているうちに
だれもが歳をとり国は歳をとり文明は歳をとる
あたまがいい人やよく考える人ほど
だからあきらめるしかないんだよ
どうにもならないんだよ
しょうがないんだよと結論することになり
けっきょくぼくらは無力なだけで
人間はどうしようもなく破局に向かうだけで
他人はどこまでも信じられないもので
だから幾重にも何重にも他人を疑いに疑って
あらかじめ罠も仕掛けておかないといけないようになり
こころは閉塞と枯渇と諦念と停止に向かう

みんななかよく助けあって
町も野山も海もきれいに保ち
みじかな犬や猫や小鳥はもちろん
動物も魚もいつくしんで
まいにち楽しく生きていこう
…と子どもの頃にぼくに教えたのは
だれだったのだろう、いったい?
あの大人たちはだれだったのだろう?
あの大人たち自身がだれひとり
そんな生き方なんてしなかったのを
いまのぼくはよく知っているけれども
でもぼくのしたいのはもう非難ではなくて
実際はそう生きなかった大人たちの口から
子どもにむけてはひかりのような言葉が
語られたのだという奇跡に驚くこと

ぼくのしたいのはもう非難ではなくて
実際はそう生きられずに消えていった大人たちの口から
あとに続いていく次の時間のなかの地球滞在者たちにむけて
つよく不可能な険しい道を指し示すひかりの言葉が
しょうこりもなく語られ続けてきた途方もない奇跡の伝承を
人間と呼び人類と呼ぶのだと認識しなおすこと





2019年12月30日月曜日

『柔らかい肌』と『突然炎のごとく』を見た若い女性への返信




日々、私はだんだんと、知性に重要性を与えなくなってきている。
 マルセル・プルースト「サント=ブーヴに抗して」



このところひどく忙しかったので、遅れて返信を。
ほんとうに、
ずいぶん遅れましたが。

まず、『柔らかい肌』は、本音をいえば、中途半端でヘンな映画。
どこがそんなにいいのですか?
…というのが、ぼくの基本的な感想です。
タネ本も通俗小説ですしね。

トリュフォーは7年ほど授業でとりあげ続けたので、
もちろん、ぜんぶ見ましたし、
どれも34回以上は見直しています。
ドワネルものなどの主要なものは10回は見ています。
そういう成り行き上、
トリュフォーにはたしかに特別の愛着も湧きました。
基本的には、人間の愛情面の哀しさをテーマとしているのも
よくわかりましたし、
ぼくの一時期の意識をべったりと染めた懐かしい映画
となりました。
しかし、
トリュフォーをあえて講義で取りあげたのは、
かつてのフランス映画をほとんど見ない日本の大学生にとって、
恋愛や青春を多く扱ったトリュフォーならば、
まだアクセスしやすいだろうから、
という裏事情的理由からでした。ぼく自身としては、
じつは、
ゴダールやロメールやルノワールや、
その他、
パゾリーニやタルコフスキーやフェリーニや……と
はるかに
ふつうの今の日本人にとって見づらいかもしれない映画のほうが
好きです。

しかし、たくさん見直すと、
ダメな友だちのいいところもわかるというようなぐあいに、
『柔らかい肌』の面白さもわかってきますね。
道路の番号や
ホテルの部屋のナンバーなどに、
何度も同じ数字が出て来るのに気づきましたか?
あれは一種の知的遊戯映画で、
いろいろな符牒が張りめぐらされています。
彼が尊敬していたヒッチコックの影響を見ながら鑑賞すると、
もっと面白く見られます。
(しかし、ヒッチコックのほうがはるかに面白いし、
映像や物語のドライブがゴージャスなのが、
トリュフォーばかりか、
フランスのヌーヴェルヴァーグ映画の
あわれなところ。
いつか、誰か、ぜったいに、
フランスのヌーヴェルヴァーグのどうしようもないつまらなさを
書き尽くすべきです
そればかりか、じつはつまらないフランス、
についても……)

つまり、
物語や、描かれたあの男や妻の恋愛には、
じつはあまり重要性はない、
という見方もできる映画
と、ぼくは思います。
あなたはたぶん読んでないだろうし、知らないだろうけれど、
ジャン・エシュノーズの
読み手が最初から分析的な読解力と再構成力をフルに発揮しないと
けっして面白くは読めない
読者の知力への
挑戦的な小説みたいなところの
はや取りっぽさが
トリュフォーにはありました。
彼の面白いところは、
ゴダールのあからさまな実験手法はとっていないにもかかわらず
映画はもっとはるかに再構成的読解対象であるべきだ
といった可能性に
道をはっきり開いていた点です。

『突然炎のごとく』は有名な映画で、
ぼくより上の各世代が大はしゃぎしていて、
ぼくなんかはそれに抵抗しないように表向きあわせながら、
こちらも面白がっているかのように装ってきた映画で、
正直のところをいえば、
もちろん面白さはあるものの、
じつは安手のぶっきらぼうなつくりで、
映画的な陶酔になんかぜんぜん導いてはくれない
中途半端きわまる作品
だと
思っています。
ふたりの男も、ばかな連中だナとしか思えず、
ジャンヌ・モロー演じるヒロインも、
ぼくから見ればなんの魅力もなくて、むしろ嫌いなタイプの女ですし、
そもそもぼくはジャンヌ・モローが好きではないので、
車が橋から急に落ちる最後の場面や、
火葬場で彼女の骨を砕いて小さな箱に収めてしまう点の
あの衝撃度などのほかは、
いつも退屈してつきあいながら、
それでも
十回以上見てきた映画です。

あなたが指摘するように、たしかに
トリュフォーは足フェチですね。
でも、トリュフォー映画に出る女優達は、
イタリアのモニカ・ベルッチの肉体美などに比べれば
たいしたエロスもないので、
こういう点でも、
中途半端な映画監督と感じてしまったりします
ベルッチを持ち出さなくても、たとえば若尾文子や、
このあいだ逮捕された沢尻エリカや、
そろそろお歳かも?…なのにあいかわらず頑張っている
深田恭子のほうが、よっぽどトリュフォーの女優たちよりも、
心臓の裏側をくすぐられるような惑乱を起こさせそうです。
本当にフランスのヌーヴェルヴァーグ期は
じつは人材的に不幸だった、
とあえて断言してみたいほどです。

足フェチといえば、
谷崎潤一郎も足フェチだったようですね。市川崑監督の『細雪』が、
吉永小百合を使って、
そのあたりに迫ろうとしています。
どことなく、加藤茶の「ちょっとだけヨ」みたいで、
ちょっと俗っぽすぎる、
というか、安易すぎる、というか、
そんなやり方なんですけれどね。
まぁ、市川崑は通俗を手玉に取って撮る人なので、
あれも芸といえば芸なんですが。

そもそも、小説とか映画というのは、
フランスでは、奇矯な、奇妙な、ヘンな恋愛や生き方を描くのが
通り相場になっていて、
そうでなければ価値はない、といったところがあります。
実際のフランス人は、
ぜんぜん冒険なんかせずに、
ドロドロした恋愛もせずに、
無難におだやかに生きていく人がほとんどです。
フィクションを見て、その国がわかったつもりになるのは、
本当に、アホのすること。
フィクションというのは、現実がそうならないようにといった
ガス抜き装置です。
また、日本のフランスかぶれには、
じつにヘンな思考や感受性を内部に養ってしまった人が多いので、
まともには相手にしないほうがいいですよ。
じぶんたちにはとてもではないが経験できないような
哀愁、哀切、豪奢、オールドファッションドのポエジー纏綿たる
じつはたいしたこともない
フランス映画手練れの不倫ものを見て
ドゥ・マゴでお茶とサンドイッチしていく程度の人たち。
  
そういえば、あなたは、
『柔らかい肌』と『突然炎のごとく』を、
どろどろした恋愛映画と形容していましたけれど、
恋愛というと、すぐに「どろどろした」と形容してしまうのも、
世間一般でよく見る扱い方ですが、
互いの感情差が生じた程度のことで、片っぽうが
しがみつき過ぎる事態になった際に、もう片方が
面倒に感じてしまう点なんかを
「どろどろ」とか
「重い」とか
言ってしまう程度のことなので、はて、
ほんとうに「どろどろした」恋愛や場面ってあるのだろうか、
といつも思います。
性愛の実際の場面でも、「どろどろした」というようなものでは
なくって、
激しくなるほど
澄んだものになっていくのではないでしょうか。
本当の”濡れ場”では、
せこい損得勘定はどんどん失せて、
ちっぽけな、ちゃちな自我意識が薄れていきますからね。
そんな点で、大島渚の『愛のコリーダ』無修正版は
ほかのどれよりもまず、
青年男女に見せておくべき清冽なる教育的映画だと思います。

まぁ、「どろどろ」なる印象の発生をめぐっては、
いろいろと考えさせられます。
映画で撮るとなれば、
やはり、そこに、監督やカメラマンの
センスや技術がべったりと乗っかってきてしまうもので、
映画における内容は、どんな時でも、
作成者側のセンスと技術によってのみ表現されるものですから、
やはり、作り手の腕こそが
いちばんに考えられるべきものです。



さて、
あなたが持ち出してきた「どろどろ」路線とは違うけれど、
比較的近いところで見た映画では、
『ワイルドライフ』なんかがよかったです。
人間ひとりひとりの性格や考え方の歪みのどうしようもなさから
自ずと生まれて来ざるを得ないドラマが、
見事に描かれていました。こういう映画に比べると、
トリュフォーのいくつかの映画なんて
ゴミみたいなものです。
ほんと、そう思っています。
人生、使える時間は限られていますからね、
無意味に有名だったり、内実を伴わないのに
もてはやされているようなものは放っておいて、
心をガツッとつかまれるようなものに、
まずは、直球勝負で向かっていくべきです。
娯楽であってもね。
いや、娯楽こそ大事。
娯楽って、誰もが、自分に対して、
裸でわざわざ向きあう時間ですから。
それこそが本当の時間、本当の生の瞬間です。
こうは言うものの、
もっとも、
トリュフォーにもいいものがもちろんあります。
そのうち、『恋のエチュード』など見てみてください。
最初から、ときどきは退屈しながらも、ずーっと見てきた後の、
最後のエピローグなど痛切です。

ところで、ゴダールの『軽蔑』は見ましたか。
音楽や、撮り方とあわせて、
フランスのダメダメなヌーヴェルヴァーグ期とはいえ、
最高度の効果の発揮された映画。
まぁ、旬の終わりかけのブリジッド・バルドーの
熟し切った、もう腐る手前という感じの
あの哀切な美しさ、
あれがねぇ、中年になってからのエリザベス・テーラーみたいに、
いいんだけど。
バーグマンやヘップバーンは、中年になってからは、
なんか、ダメだったんだよねぇ。
グレース・ケリーはよかったけれど、
五十二歳で死んじゃった。自動車事故で崖から車ごと転落した、
と思っていたら、ローバー3500を運転していた時に
脳梗塞を起こしたんだって?


思いついたから、
ついでに書いておくけれど、
「どろどろ」系恋愛映画としては、
なによりもルイ・マルの『ダメージ』かな?
マルグリット・デュラスの小説を
ジャン=ジャック・アノーが映画化した『ラマン』は?
ベネックスの『ベティー・ブルー』も、
猛烈に「どろどろ」系かも。
というより、
「めんどくさい女」系の最上位かな?
だけど、やっぱり増村保造だろう?
っていう
見方もありますよね。


さて、もう年末も押し詰まって30日、
……などという
紋切り型の「時間ばかりが流れ去る…」的
かつ「また歳を取っていくばかり…」的嘆き節を
平気の平左でペロリと口にしてしまえるほど老いてしまったなァ、
と、さほどの感慨もなく思ってしまいますが、
まあ、来年も、大いに映画を見て、
本当に「どろどろ」なものに出会えたら、ぜひ、教えてください。
オリンピックとかいうのがトーキョーとかいうところであるそうで
その国ではオリンピックとかいうのが終わったら、おきまりの
巨大不況に突入し、いっそう人心が荒れすさむばかりか、
中国とかいうのがいよいよその国に突然の侵略戦争を開始し、そもそも、
裏でそれをしかけたのはアメリカとかいうのだったわけで、
その国の列島を前線として、列島全体で
沖縄戦以上の悲劇が繰り広げられるはずなので、
「どろどろ」映画なんぞ見ている暇はないかもしれなくて、
あたり一面に「どろどろ」血や脳髄を垂れ流して、
けっこう長く蠢き続けているアベ様の列島人たちの光景と
つき合わないといけなくなりそうかも。
『戦場のピアニスト』とか『シンドラーのリスト』とか、
『フューリー』とか『カチンの森』とか
『プライベート・ライアン』や『ハクソー・リッジ』あたりを見て、
ちょっと予習をしておいたほうが、いいかも、ですよ。
それとも、一気に『ザ・デイ・アフター』かな?