2 ブラッサンスの国の首都で (続き)
「リュリュには立たないっていうのは、どういうんだろう? よっぽどひどいオバちゃんかなんかかなあ。 自分の妻を言っているのかもね。どう思う?」
「妻っていう説にはすすんで賛成したいけれどね。まあ、 ほかの場合もあるだろうね。 好きじゃないのにむこうから好かれて、 それがなかなかいい人なんだけど、 どうもこちらがその気にならないっていうのがあるじゃないか。 すごくいい人。だけども、まったくそそられない。 友だちとしてはとても貴重で、 自分もこんな人間になりたいと思わせるような人で、 やさしくって、非の打ちどころがなくって、…だけど、 ぜんぜん立たない。さすっても、こすっても立たないっていう人」
「いるね。そういう場合ってあるな。しかも、いい人だから、 事が喜劇的には収まらないんだよね。こちらとしては、 立たないと義理も立たないという気になるわけだ。 こんなに親切にしてくれるんだから、 こんなに愛してくれるんだから、 それに対して身体で報いたいとは思うんだけれども、 まったくダメ」
「たぶん、そういう場合を想像しとけばいいんだと思うけどね。 でも、つらい恋の思い出っていう可能性もあるかもしれないよ」
「歌詞だけで見るならね」
「まあね。曲の調子が陽気だからなあ。無理かな。でも、 リュリュだけは他の女とは違って、 立つとか立たないとかいうレベルでない、 もっともっと深い気持ちを起こさせるのだと考えると、 なかなかいいと思うんだけどねえ」
「もっともっとわだかまった感情が彼女に対してはある、 というわけね」
「そう見れば、かなりオリジナルな愛の表現なわけだ」
「そうね。立たないということで、 そこいらの性欲愛と一線を画して、 人生全般とじかに結びつくたぐいの愛を表現してしまうわけね。 かなり無理な解釈かもしれないけども、でも、いちばんいいなあ、 この解釈」
「愛してたんだよ」
「立たなくなるほどね」
「でも、ほんとに愛すると、そういうもんじゃないか? 少なくとも、そういう時期を経るものだよね」
「そう、そう、禁欲。自己犠牲。騎士道。試練。 ヨーロッパ中世の真似をしようっていうんじゃなくとも、 自然にそうなるよね。きみと寝たいなんて死んでも言えない。 でもね、いちいち反論を立てるみたいだけど、 そういう気持ちって、やっぱり若いうちだけじゃないかなあ。 年齢が進むと、そういう愛って、信じなくなるでしょ?」
「まあね。だけど、若い者が恋に苦しんで自殺したとか、 そこまでいかなくても、不器用に振る舞っているとか、 無口になっているとかしていると、ああ、いいなあ、 純粋でいいなあと思うけどね。馬鹿にはしないな。 自分の心は老いてしまったけど、あそこにはまだ若い心がある、 そうして苦しんでいる。あれが、もう自分にはできないのだ、 もう二度と、あの強い春風の冷たさは自分には吹かないのだ、 そう思うんだよ。やっぱり、寂しいなあ」
「それじゃあ、まあ、この歌、 今日のところはそう解釈することにしようか。 リュリュをそれほど愛していたというふうに…」
「そう。うまくいかなかったわけだ。つらい恋愛」
「つらい過去が『立つ』とか『立たない』 とか言わせてるってわけね。心は今もなお癒えていない」
「ぜんぜん癒えてない」
「そう、それがよくわかる。わかるから、これだけバンデ、 バンデと言っても下品でない」
「下品じゃない、ほんとうに」
「これがわからない女なんて、最低だな」
「最低だね」
「でも、そういうのって、多いよ。わからない女」
「多いよねえ」
「女なんて、そんなものかな」
「そうなんじゃない?そんなものだよ」
「そうか。ひどいね」
「ひどい。最低だ」
「最低だね」
「ほんとに。人前に出せないってやつだね」
「そう、人前に出せないってやつ」
ミレーユと彼の妻のほうを見ると、女どうしで頷きあいながら、 呆れたという顔をしている。
私たちの女がそんなものではなく、最低でなどなく、 人前に出せないってやつでなどないことを、 彼も私もじつは思っていて、 それをミレーユも彼も妻もよくわかっている。 それが私にはよくわかる。
それにしても、すべてが終わっていき、崩壊していき、 朽ちていき、滅びていき、忘れられていくこの世界の中で、 これは幸福といってよい瞬間ではなかろうか? かつて安部公房がどこかに書いていた。 幸福なんて言葉を留保なしに使っているやつを見ると、 馬鹿じゃないかって思うよ、と。でも、安部さん、 こういう瞬間というのは、 幸福と呼んでもいいのじゃないだろうか。それが瞬間である以上、 一瞬の後にはもう失われているのだから、 留保なしに幸福と言ってみてもいいのではないか。 瞬間であることによって、 何にもまして絶対的な留保が付いているといえるのだから、 これならあなたの美学にも合うのではないだろうか。
どうしてだかわからないが、私のリュリュの思い出が蘇ってくる。
失う、などという言葉が頭に浮かんだからかもしれない。
フェルナンドでもなく、フェリシーでもなく、 レオノールでもない。ミレーユにもまだ会っていなかった。
リュリュだ。
(第2章 終わり)