プラタナスの落葉も
秋の
たのしみ
雨がちの夜など
濡れて
くしゃくしゃになって
舗道のわきに
重なってこびり付いているのも
秋に似つかわしい
そこに
オレンジ色の
街灯のあかりが落ちているのも
ちょっと
洒落た物語の一景のようで
秋の
はなやぎ
プラタナスの落葉も
秋の
たのしみ
雨がちの夜など
濡れて
くしゃくしゃになって
舗道のわきに
重なってこびり付いているのも
秋に似つかわしい
そこに
オレンジ色の
街灯のあかりが落ちているのも
ちょっと
洒落た物語の一景のようで
秋の
はなやぎ
神保町の
雨の夕暮れ
中高年の女性たちで集まって
源氏物語の読書会をしているという
義母に
見やすい古語辞典を探してやろうかと思いつき
東京堂書店に
きまぐれに寄る
辞典のほか
予定外に語学書なども買って
雨の夕暮れ
書店からすずらん通りに出ると
薄闇は濡れて
うつくしく
懐かしい
神保町風景だった
本降りになった雨さえ
うつくしく
まるで
なにかの覚醒の瞬間のように
快いのに驚いて
しばらく
暮れがたの灯の並びを
揺れを
傘さしてゆく人びとの
くっきりとした夢まぼろしの影を
眺めた
神保町の
雨の夕暮れは
あらゆる大学街の
雨の夕暮れに通じていて
人びとはいつのまにか
大学生に戻り
とある秋の一日
ふいの雨に降られていた瞬間の
若き
若きわれと
なる
そういえば
ひとつ
買い忘れていた
と気づき
本降りのなか
むかいの道を少し靖国通り方面に
行ったところの
ボヘミアン・ギルドに寄って
状態のとてもいい仏和辞典を
500円
という廉価で
教えている中高年の学生のひとりに
買っていってやろう
ともする
ローマで雨だった
という
映画があった
と
思いながら
東京の10月末の雨のなかを
歩く
でも
違っていた
思い出した
と
思った
映画のタイトルは
ロベルト・ロッセリーニ監督の
『ローマで夜だった』
で
リチャード・ブルックス監督の
『雨の朝巴里に死す』
と
ちょっと混合させてしまい
『ローマで雨だった』
などと
架空の映画タイトルを
思って
しまったらしい
『雨の朝巴里に死す』は
エリザベス・テイラーが出ていたのが
唯一の取り柄で
なんだか
あまり面白くなかった
フィッツジェラルドの『バビロン再訪』が
原作というのに
でも
The Last Time I Saw Paris
という原題はいい
最後にパリを見たのはいつだろう?
ぼくの場合
などと
ふり返ってみる
昨年でも
一昨年でも
ない
醜く
おぞましく
チープに
すべて画一的になった世界に
もう旅には出て行かない
と決めて
どのくらいに
なる
だろう?
ふり返ってみる
昨年でも
一昨年でも
ない
東京で雨だった
そう思い出す時も
来るのか
来ないのか
まだ来ない
未来をも
ふり返ってみる
ふりもしてみる
じつは
うつくしい
東京の雨
雨の
東京はうつくしい
24時間
東京に居続けないとわからない
うつくしさ
雨の東京を嫌がる人は
東京の人では
ないだろう
東京で雨だった
それだけで
幸福な
ことだったね
雨の降る時
雨の東京から
雨の東京のどこかへ
移動する
雨の東京から
離れない
離れることが
ない
雨の東京から
帰っていくところはない
帰っていく先も
東京
東京で雨だった
東京の雨がうつくしい
それだけで
幸福な
ことだったね
雨の東京がうつくしい
しおしおと
雨の降ったあとの
夜遅く
外に歩きに出てみたら
闇のなか
うす闇のなか
あるいは
あかるみのなか
だれもいないというのに
あちこちで
人声が聞こえてきて
ちょっと
新鮮だった
ささやくというより
なにか
しやべっている
しゃべりあっていることも
ある
人はいないのに
すぐ脇で
しゃべり声が聞こえる
ピントが
合いさえすれば
雨で湿り気が増したときは
こんなにも
聞こえるものなのか
そこここの
からだなき者たちの
おしゃべり
斎藤茂吉の
秋風の遠(とお)のひびきの聞こゆべき夜ごろとなれど
早く寐(いね)にき
(秋風の、味わいのある遠い響きが聞こえるはずの夜なのだが、
はやく寝てしまったよ)
を読み
5才頃から10才頃の
田畑に囲まれた田舎での秋を思い出した
新しくできた団地は
東西南北
田んぼに分厚く囲まれていて
真新しい部屋に移り住んだぼくは
稲たちが穂を伸ばして
夏から秋にかけて
風のたび
台風のたび
ぶつかりあって鳴りに鳴る音のなかで
朝を過ごし
昼を過ごし
夜を過ごした
『風の又三郎』のなかの音が
すんなり親しく
受けとめられたのも
そのせい
稲たちの穂のぶつかりあう音のなかに
きっと不思議な存在が
縦横無尽に自由に飛びまわっているのだろうと
ほんとうに
信じて疑わなかった
きみは稲穂のぶつかりあう響きのなかで
少年期を過ごしたことがあるか?
夢からふと覚めると
終わりなく稲穂がぶつかりあう響きのなかに
どこまでも
吸い込まれていくような経験を
きみはしたことがあるか?
だれにであれ
しつこく
そんな質問をしたくなる時が
ある
終わりなく稲穂がぶつかりあう響きのなかに
どこまでも
吸い込まれていくような時空から
ぼくは来たのだと
しつこく
言い募りたい時が
ある
カレーにも飽きた
餃子も
もう
いいかな
他の中華料理も
ちょっとな
いくらか
空腹になる
ゆうぐれ
帰路にかるく食べるのも
よして
家に急ぎ
みかんやバナナを食べ
ミルクを飲んで
時間も金も節約して
ホッとして
コーヒーなんか
いま
淹れてる
大学の近くの道で
すれ違う
大学生ふたり
「死ぬなら
オレは
ぽっくり逝くのが
いいな」
「オレは
持ちこたえるだけ
持ちこたえて
死ぬのがいいな」
まだ
頬っぺたのやわらかそうな
1年生か
2年生に見える
男子ふたり
大学からの帰りなので
ニコニコしながらの
のんびりした
問答である
はたち前後の
頑是ない
死生観問答である
もうすぐ死ぬ人がわかる
人も
少なくない
ほんとうに
わかる
のか
どうか
無力さに苛まれて
そのような思い込みのミニ信仰に
嵌まっていく
人も
少なくない
から
しかし
このごろ
わたしの感じるのは
すでに死んでいるのに
まだ
からだに見えるかのような姿のままで
生きているかのような人が
とても多いこと
はい
わたしもかなり
死んでしまっています
少なくとも
思い込みのミニ信仰に
嵌まってはいない
生きている
という信仰にも
死んでいる
という信仰にも
感じているのは
だれ?
思っているのは
だれ?
パラケルススは一人になった。
ランプを消し、
使い古した肘掛け椅子に腰を下ろす前に、
わずかな灰を手のひらにのせて、
小さな声である言葉を唱えた。
薔薇は蘇った。
ボルヘス 『パラケルススの薔薇』
ボルヘスの最後の短編集『シェイクスピアの記憶』*の
内田兆史氏の解説によれば
ボルヘスは
「書いたものよりも読んだものを誇りたい」
「作者であるより読者でありたい」
と語っていた
また
「読み手の役割がもっとも重要なのだ。
読み手であって、書き手ではない」
「読み手が書き手の仕事を引き継ぐのだ」
と信じていた
あらゆる造形や工芸
美術や音楽や創作のたぐいにおいても
同様だろう
さらに
拡大解釈されてよい
世界創造や造物よりも
世界を受けとめて「読んだ」ことを誇りたいし
世界の受けとめ手こそが重要なのだ
と
鑑賞者や観察者
読み手や
読み解き手がなければ
神は悲しむだろう
世界を生きる者や読み解き手こそが
神を引き継ぐのである
*J.L.ボルヘス 『シェイクスピアの記憶』(内田兆史・鼓直訳、岩波文庫、202