2024年10月30日水曜日

秋のはなやぎ

 

 

 

プラタナスの落葉も

秋の

たのしみ

 

雨がちの夜など

濡れて

くしゃくしゃになって

舗道のわきに

重なってこびり付いているのも

秋に似つかわしい

 

そこに

オレンジ色の

街灯のあかりが落ちているのも

ちょっと

洒落た物語の一景のようで

秋の

はなやぎ






神保町の雨の夕暮れ

 

 

神保町の

雨の夕暮れ

 

中高年の女性たちで集まって

源氏物語の読書会をしているという

義母に

見やすい古語辞典を探してやろうかと思いつき

東京堂書店に

きまぐれに寄る

 

辞典のほか

予定外に語学書なども買って

雨の夕暮れ

書店からすずらん通りに出ると

薄闇は濡れて

うつくしく

懐かしい

神保町風景だった

 

本降りになった雨さえ

うつくしく

まるで

なにかの覚醒の瞬間のように

快いのに驚いて

しばらく

暮れがたの灯の並びを

揺れを

傘さしてゆく人びとの

くっきりとした夢まぼろしの影を

眺めた

 

神保町の

雨の夕暮れは

あらゆる大学街の

雨の夕暮れに通じていて

人びとはいつのまにか

大学生に戻り

とある秋の一日

ふいの雨に降られていた瞬間の

若き

若きわれと

なる

 

そういえば

ひとつ

買い忘れていた

と気づき

本降りのなか

むかいの道を少し靖国通り方面に

行ったところの

ボヘミアン・ギルドに寄って

状態のとてもいい仏和辞典を

500

という廉価で

教えている中高年の学生のひとりに

買っていってやろう

ともする

 





東京で雨だった

 

 

 

ローマで雨だった

 

という

映画があった

思いながら

東京の10月末の雨のなかを

歩く

 

でも

違っていた

 

思い出した

思った

映画のタイトルは

ロベルト・ロッセリーニ監督の

『ローマで夜だった』

リチャード・ブルックス監督の

『雨の朝巴里に死す』

ちょっと混合させてしまい

『ローマで雨だった』

などと

架空の映画タイトルを

思って

しまったらしい

 

『雨の朝巴里に死す』は

エリザベス・テイラーが出ていたのが

唯一の取り柄で

なんだか

あまり面白くなかった

 

フィッツジェラルドの『バビロン再訪』が

原作というのに

 

でも

The Last Time I Saw Paris

という原題はいい

 

最後にパリを見たのはいつだろう?

ぼくの場合

などと

ふり返ってみる

昨年でも

一昨年でも

ない

 

醜く

おぞましく

チープに

すべて画一的になった世界に

もう旅には出て行かない

と決めて

どのくらいに

なる

だろう?

 

ふり返ってみる

昨年でも

一昨年でも

ない

 

東京で雨だった

 

そう思い出す時も

来るのか

来ないのか

 

まだ来ない

未来をも

ふり返ってみる

ふりもしてみる

 

じつは

うつくしい

東京の雨

雨の

東京はうつくしい

24時間

東京に居続けないとわからない

うつくしさ

 

雨の東京を嫌がる人は

東京の人では

ないだろう

 

東京で雨だった

 

それだけで

幸福な

ことだったね

 

雨の降る時

雨の東京から

雨の東京のどこかへ

移動する

 

雨の東京から

離れない

 

離れることが

ない

 

雨の東京から

帰っていくところはない

 

帰っていく先も

東京

 

東京で雨だった

 

東京の雨がうつくしい

 

それだけで

幸福な

ことだったね

 

雨の東京がうつくしい






2024年10月29日火曜日

からだなき者たちのおしゃべり


  

 

しおしおと

雨の降ったあとの

夜遅く

 

外に歩きに出てみたら

闇のなか

うす闇のなか

あるいは

あかるみのなか

だれもいないというのに

あちこちで

人声が聞こえてきて

ちょっと

新鮮だった

 

ささやくというより

なにか

しやべっている

 

しゃべりあっていることも

ある

 

人はいないのに

すぐ脇で

しゃべり声が聞こえる

 

ピントが

合いさえすれば

雨で湿り気が増したときは

こんなにも

聞こえるものなのか

 

そこここの

からだなき者たちの

おしゃべり






終わりなく稲穂がぶつかりあう響きのなかに


 

 

 

斎藤茂吉の

 

秋風の遠(とお)のひびきの聞こゆべき夜ごろとなれど

早く寐(いね)にき

 

(秋風の、味わいのある遠い響きが聞こえるはずの夜なのだが、

はやく寝てしまったよ)

 

を読み

5才頃から10才頃の

田畑に囲まれた田舎での秋を思い出した

 

新しくできた団地は

東西南北

田んぼに分厚く囲まれていて

真新しい部屋に移り住んだぼくは

稲たちが穂を伸ばして

夏から秋にかけて

風のたび

台風のたび

ぶつかりあって鳴りに鳴る音のなかで

朝を過ごし

昼を過ごし

夜を過ごした

 

『風の又三郎』のなかの音が

すんなり親しく

受けとめられたのも

そのせい

 

稲たちの穂のぶつかりあう音のなかに

きっと不思議な存在が

縦横無尽に自由に飛びまわっているのだろうと

ほんとうに

信じて疑わなかった

 

きみは稲穂のぶつかりあう響きのなかで

少年期を過ごしたことがあるか?

 

夢からふと覚めると

終わりなく稲穂がぶつかりあう響きのなかに

どこまでも

吸い込まれていくような経験を

きみはしたことがあるか?

 

だれにであれ

しつこく

そんな質問をしたくなる時が

ある

 

終わりなく稲穂がぶつかりあう響きのなかに

どこまでも

吸い込まれていくような時空から

ぼくは来たのだと

しつこく

言い募りたい時が

ある

 

 




選挙という靄が

 

 

 

選挙という靄が

また

漂い来て

漂い去っていった

 

幅のひろい

線状降水帯のようでも

あった

かもしれない

 

崩れるべき

崖や山林を壊し

家屋を流し

深土を新たに覗かせて






2024年10月18日金曜日

コーヒーなんかいま淹れてる


 

カレーにも飽きた

 

餃子も

もう

いいかな

 

他の中華料理も

ちょっとな

 

いくらか

空腹になる

ゆうぐれ

帰路にかるく食べるのも

よして

 

家に急ぎ

みかんやバナナを食べ

ミルクを飲んで

時間も金も節約して

ホッとして

コーヒーなんか

いま

淹れてる






死生観問答

 

 

 

大学の近くの道で

すれ違う

大学生ふたり

 

「死ぬなら

オレは

ぽっくり逝くのが

いいな」

 

「オレは

持ちこたえるだけ

持ちこたえて

死ぬのがいいな」

 

まだ

頬っぺたのやわらかそうな

1年生か

2年生に見える

男子ふたり

 

大学からの帰りなので

ニコニコしながらの

のんびりした

問答である

 

はたち前後の

頑是ない

死生観問答である

 

 



2024年10月17日木曜日

かのような

 

 

 

もうすぐ死ぬ人がわかる

人も

少なくない

 

ほんとうに

わかる

のか

どうか

 

無力さに苛まれて

そのような思い込みのミニ信仰に

嵌まっていく

人も

少なくない

から

 

しかし

このごろ

わたしの感じるのは

すでに死んでいるのに

まだ

からだに見えるかのような姿のままで

生きているかのような人が

とても多いこと

 

はい

わたしもかなり

死んでしまっています

 

少なくとも

思い込みのミニ信仰に

嵌まってはいない

 

生きている

という信仰にも

 

死んでいる

という信仰にも

 

感じているのは

だれ?

 

思っているのは

だれ?

 

 





2024年10月16日水曜日

読み手であって書き手ではない

 

 

 

 

パラケルススは一人になった。

ランプを消し、

使い古した肘掛け椅子に腰を下ろす前に、

わずかな灰を手のひらにのせて、

小さな声である言葉を唱えた。

薔薇は蘇った。

ボルヘス 『パラケルススの薔薇』

 

 

 

 

ボルヘスの最後の短編集『シェイクスピアの記憶』*

内田兆史氏の解説によれば

ボルヘスは

「書いたものよりも読んだものを誇りたい」

「作者であるより読者でありたい」

と語っていた

 

また

「読み手の役割がもっとも重要なのだ。

読み手であって、書き手ではない」

「読み手が書き手の仕事を引き継ぐのだ」

と信じていた

 

あらゆる造形や工芸

美術や音楽や創作のたぐいにおいても

同様だろう

 

さらに

拡大解釈されてよい

 

世界創造や造物よりも

世界を受けとめて「読んだ」ことを誇りたいし

世界の受けとめ手こそが重要なのだ

 

鑑賞者や観察者

読み手や

読み解き手がなければ

神は悲しむだろう

世界を生きる者や読み解き手こそが

神を引き継ぐのである

 

 



 

J.L.ボルヘス 『シェイクスピアの記憶』(内田兆史・鼓直訳、岩波文庫、2023