2019年10月30日水曜日

女性の美はつねにじつは男性っぽさのことなのだが



八千草薫という女優さんは
ぼくが女性の美を意識するようになった頃
もう
おばさんか
おばあさんとしか見えず
おばさんか
おばあさんとしては
きれいな人だと見えたけれども
それだけのことで
少年や青年がひとりの女性を
おばさんか
おばあさんといったん見るようになると
その人は
もう
いつも
いつでも
いつまでも
おばさんか
おばあさんなのだった

日本のむかしの映画に関心を持つようになってから
むかしにも美人はいっぱいいたんだ
とあらためて気づき
八千草薫が妖精のようにきれいだった頃の写真も見て
あの
おばさんか
おばあさんとしか見えない人も
あんなにきれいだったのか
ひょっとすると
そこらの美人女優がかなわないくらいの
比類のないほどの美女だったわけか
と賛嘆したものだった

あらためて
若くて
比類ないほどきれいだった頃の写真を見ると
はっ
と息をのむように美しいのは
だいたい
少年か青年のような顔をしている時で
この人の美しさは
じつは
若い男性のふとした瞬間の美だったのだな
気づかされる

女性の美は
つねに
じつは男性っぽさのことなのだが
やさしくて
落ち着いていて
きれいだった
おばさんか
おばあさんにしか見えなかった人の
美しさの本質を支えていた
少年らしさ
青年らしさを
これからしばらく
見直すことにする



2019年10月26日土曜日

未知のひとのfacebookの過去の記事の数々へとふいに

 

    万葉集巻二十五を見いでたる夢さめて胸のとどろきやまず
                                                                                佐佐木信綱



美しい写真に惹かれて
導かれて
未知のひとのfacebookの過去の記事の数々へと
ふいに入り込む

四年も前の写真と記事へ
七年も前のページへ
九年も前のずいぶん個人的な日録へ

みずから撮ったもの
よそから見つけてきたのであろう写真
とりまぜて
どれもしっとりと
静謐なこころを思わされ
というのは
こういうひとのところで
まだ
息をしていたのか
うれしい

しかし
三年前の日付を最後に
さようなら
この場でご縁のあったお友だち
みなさまがお幸せでいらっしゃいますように
と記されたまゝ
投稿は終わっている

アカウントを
閉じないで
残しておいてくれているのが
さいわい

しずかに
息を呑むような
写真の数々はfacebookに残され
型にはまらない
かたくない
けれども品のある
ことば少なな日録も残されて
さいわい

四年も前の写真と記事へ
七年も前のページへ
九年も前のずいぶん個人的な日録へ
遡りながら
おなじ頃のこちらの
生活の光景や思いの数々をも
なんども
蘇らせていける
よろこび

このひと
facebookをはじめた頃は
どんなことを記していたのだろうかと
最初期にまで
遡って行ってみると

あぁら、不思議

最初の投稿は1977年のもの
どこかの湖らしき水面の
深い色あいの
しかし
輝くようでもある波紋の
たった一枚の
写真
添え書きはひと言
「生まれ変われるかな、私?」

見る間に
もちろん1977年という日付は消え失せ
2009年に早がわり

佐佐木信綱の歌のような
夢での
べつの世界の
垣間見で
でも
あったろうか

万葉集巻二十五を見いでたる夢さめて胸のとどろきやまず





身のようなものを支えるために



                 小説が書きたい……
                    中上健次


むかし同僚だった男の話には
すこし驚いた

人見知りの激しいところがあったが
やさしくて誠実だった
信頼できる男で
たしかに一度もがっかりさせられたことはない
勤め先を私が離れてからは
一度も会わなかった
夢や望みをたびたび語り合ったわけでもないから
その後どう生きていったかわからなかったが
平穏に幸せに生きていくはずだと思えた

結婚して
子どもが二人でき
ずいぶん可愛がったようだ
男の子と女の子だったという
妻がどんな人だったか
話を伝えてくれた人は語ってくれなかった
その人も他人から聞いたようなので
よく知らなかったのだろう

男は子ども二人を刺し殺して
路上に出て自分も頸動脈を切って死んだという
妻のいない時だったという
妻が働きに出ていた時なのか
買い物などで外出していた時なのか
わからない

むかし同僚だった男のこの話には
すこし驚いたが
いっしょに働いていた頃の彼しか知らないので
どう受止めていいか
わからない
いろいろなことがあったのだろう
と思おうにも
彼とのあいだには
もう
あまりに懸隔ができていて
事件が起こった頃には
私には未知の人格というべき人になっていただろう

事件が起こったのも
もう
今から23年前のことでもある

この話を
偶然聞かされたのも
もう
9年前のことなのでもある

人見知りの激しいところがあったが
やさしくて誠実だった
信頼できる男で
たしかに一度もがっかりさせられたことはない
同僚としての
そんな人となりだけが
はっきりと
私の意識のなかに残っている

世間の記憶から
切り離されて

彼自身の存在からも
たぶん
彼自身の魂からも
切り離されて

私の意識のなかだけに残り続ける
あまりにたくさんの
今ではなにからも切り離されてしまっている
人となり
物となり
それらの氾濫に小突かれ続けながら
かろうじて
つかの間でも
身を支えるために
身のようなものを支えるために
書こうか
書こう
思う




2019年10月24日木曜日

しっとり静かな小径の闇のなか



  
小径をたどっていけば
すぐ
はなれのレストランに着く

もう夜だ

たいして食慾はないが
ちょっと
食べておきたい

小径を歩いて行くうちに
胸のあたりに
食器がふたつ浮かび上がってくる

ひとつは玄米
もうひとつは汁物

汁物には
根菜がいっぱい入っていて
こりゃあ
おいしそうだ

玄米も汁物も
宙を浮いて
ついてきてくれる
箸も
匙も
わきに浮いていてくれる

はなれのレストランまで
べつに
行かなくてもいいな

しっとり静かな
小径の
闇のなか
立ち食いだけれど
多過ぎない
閑雅な
ひとり夕食を
のんびりとっている




こういうの好き


  
レストランも夕暮れて
いい雰囲気

こういうの好き

人はまだまばらで
ところどころ
橙色のあたたかそうな灯が
灯されている

なにか飲みたいわけでもない
食べたいわけでもない

でも
なにを貰おうかな
と迷っているふうをしながら
ひろい店内を
あっちに
こっちに
ふらふら

大きなガラス窓のむこうの
西空の夕暮れが
大いそぎでお色直しし続けていく
ほかの方角は
そろそろ
魔女たちにうってつけの

こういうの好き

なにか飲みたいわけでもない
食べたいわけでもない

だれかを待っているのでもない

すっかり人生を変えてしまうような
なにかに
邂逅するのでもない

変わって
変わって
変わりに変わって
すっかり変わってしまって
最果ての地点に
もう
いるから




いつのまにかすっかり長袖している


  
毎日のように咲いていた朝顔が
もう
ぽつぽつ
としか
花をつけない

さびしい?

進む秋の
気持ちのなかの「感じ」を
確かめてみても
よくは
わからない

さびしい
のでは
ないような気もする

すっかり
花を
つけなくなった蔓を
いつのまにか
すっかり
長袖している
わたしが見ている





通りゃんせ




  ♪行きは よい よい
帰りは こわい*

ふと
思い出されて

あゝ
これって
人生のことだったか
ようやく気づく

 ♪こわいながらも
通りゃんせ
通りゃんせ







2019年10月21日月曜日

こんな


  
こんなことを思いながら
時間を費やしていきたいのではないのに

こんなことを感じながら
朝から夜へのうつり行きを流れていきたいのではないのに

こんなことを書きながら
死の滝壺への今しばらくに全身で浸って行きたいのではないのに

こんな生でしかないのかと反芻しながら

こんな時代とこんな民のなかでしか

こんな身に沿わぬ言語に絡めとられながら

こんな瘴気のような価値観と思考癖の蠅取り紙に