衣食が足りるとすぐに社会的に自己表現したがる。社会のなかでやはり上へ上へと出ようとするでしょう。それがやっぱりサークル詩ですよ。上へ上へー社会と同じ構図なんだ。それは違うんだな。芸事は物好きのすることですから。
「現代詩の問題点と方向」(インタヴューby渡辺武信)
『現代詩手帖』1966年3月号
大きくてかさばる本なのに
1978年初版の『堀川正美詩集1950―1977』は
いつもぼくの手元にある
年じゅう見るわけではないけれど
背表紙を目にしない日はない
たまに開いては
行き当たりばったりに出会ったページを
読んだり
わざと次のページのを
読んだり
詩集を読むっていうのは
こんなふうにするのが
いちばんいい
旧友の手紙・8月15日
わたしは今日セロリと牡蠣をたべた。
酒はいつもよりのんだ。
やがてまたしずかないらだちがひろがりはじめて波だち
レモンのひときれのように浮かんだまま
ずっと考えこんでいた。
ひらかれっぱなしの新聞は入り組んだ部屋か
知らない都会の地図にもみえた。
また十年・また十年・また十年・また十年
という例のしつっこい声がかすかにしつづけた…
わたしは居眠りをしたようで
いらだちの親しい発信はどうしてかもうなくなっていて
未知の夜のなかひとり目がさめ
それで長いことじっとうごかないでいるばかりだった。
いきなりわたしにはわかった。このさき、歳月
為すに値するものがついになくなったのが……
わたしは永遠に若いままでいるしかないのがわかった。
悪趣味だと思わないでもない
何もしないで生きてゆく――それを決意するとは
死んだやつら、生きているやつらの
魂に許しを与える最良の方法だ。
このことに意味があるか?
わたしは何ものにもならない。
なんでも見る。
たべて、のんで、ねる。
それだけの話。
香焚きこめて。*
ぼくは現代詩の敵を標榜しているけれど
つまらないダメダメな連中が
じぶんたちこそ現代詩だとわめいて
えらそうにしているから
でもこういう本物を読むと
かつて現代詩はたしかに存在して
何度でもしゃぶりたくなる甘露のような
味のあることばを追い求める生まれつきのぼくは
やはりそれらを
読むことになってしまう
堀川正美のこの詩では
うっかりすると
いきなりわたしにはわかった。このさき、歳月
為すに値するものがついになくなったのが……
わたしは永遠に若いままでいるしかないのがわかった。
ここに気持ちを惹かれ
ここを中心に読むことで
読みを落ち着けていこうとしてしまうが
この詩でほんとうにいいのは
冒頭の
わたしは今日セロリと牡蠣をたべた。
酒はいつもよりのんだ。
やがてまたしずかないらだちがひろがりはじめて波だち
レモンのひときれのように浮かんだまま
ずっと考えこんでいた。
のところで
「セロリと牡蠣」というあわせもすばらしいが
「酒はいつもよりものんだ」の
「いつもより」を加えてくるみごとさや
「やがてまたしずかないらだちがひろがりはじめて波だち」の
ちょっとやそっとでは書き記せないような
ひらがなを続かせた
だれもいない
じぶんだけいる浜辺のさざなみの打ち寄せそのもののような
ちょっと肌寒いような
早朝の浜辺で感じるしあわせのひとつのような
でも
もう数十分後にはやることが控えていて
この浜辺を離れていかないといけない時のような
せっつかれ感や
そこの時空に100%なりきってしまえない残念さが
ぼくらの意識に与えられているところ
出版や本というものへの敵であることも
ぼくは標榜しているけれど
こんな詩体験をさせてくれるのは
1978年初版の『堀川正美詩集1950―1977』という
この本の体裁あってこそだと思うと
偶然つくられた本のありようというのには
絶対性のようなものがあると
認めざるを得ない
出版されてから40年以上経ってみると
『堀川正美詩集1950―1977』は
まるで北原白秋の『邪宗門』さながらの
絶対的なありようを帯びて見える
紙や製本はもっと軽くしてもいいだろうが
ほかの体裁にしたり抜粋したりせずに
ほぼこの体裁のままで再版して
20世紀後半の日本の詩の成果として
そろそろ残していくべきだと思う
ぼくが言っておきたいのは
こんなこと
現代詩の敵で
本と出版の敵でなければ
思いつくこともできず
言えもしない
ということ
現代詩の敵で
本と出版の敵ならば
それ以外に無限に面白いものがあると知っていて
現代詩と本と出版なしで
地球滞在はいくらでも
何億輪廻でも楽しめると知っていて
それだからこそ
格別に価値のある現代詩と本と出版も
嗅ぎつけることができる
ということ
*『堀川正美詩集1950―1977』(れんが書房、1978年)、pp.378-380