2022年2月28日月曜日

ちょっといい立ちより処

 

 

神田経由で三越まで歩いて行ったが

めずらしく日銀の裏から通っていって

三井本館と三越のあいだを中央通りに出て

それから三越に入った

 

繊細な手描き模様の描かれた

雲丹の柄のような趣の陶器がならぶ

澤谷由子陶展を見たが

これが目的

 

けれども同じフロアーに

いろいろな展示があるので

日本工芸会陶芸部会50周年選抜展を見たり

ふらふらと入ってみた鈴木強の

笑う動物シリーズの日本画を見たり

 

そろそろ空腹になったので

上の階の特別食堂を見てみると

けっこう高いわりに

食べたいものでもないので

それでは近辺でなにか

と思っても日曜日

けっこう閉まっていて

じゃあコレドでも

といろいろ見てはみたが

ほんとうに食べたいものもなくて

しかし空腹はつのって

神田まで行けば

なにかあるだろうと歩き出すと

空腹はさらにつのってきて 

めずらしく

クラクラするほどになり

苛立つほどになり

 

けっきょく

めったに入らない回転寿司へ

めずらしく入ってみる

となかなかよくて

回転寿司ではとにかく

安い皿のイカやタコが好きなので

まずはそれらをとり

ついでアジをとり

ついで炙りサーモンをとって

というぐあいに食べていくと

けっこう皿を重ねていく

 

回転寿司「江戸ッ子」という店だが

うちから東京へ

日本橋へ

銀座方面へ歩く時には

ちょっといい立ちより処が見つかって

結果的にはよかった

 

あとで調べたら

けっこう評判の店で

かるく寿司をつまんでいく分には

わるくない立ちより処

 

母方の祖父は神田美倉町の生まれなので

いわば

お祖父ちゃんの遊び回った界隈に

ようやく馴染み出して来た

というところ





八つぁん熊さんの世界


 

ウクライナ領内に

ロシアが軍事展開をしている

のだ

そうだ

 

のだ

そうだ

というと

ずいぶん突き放した感じが出るが

報道言語+写真映像やコメント言語+写真映像

Facebook言語+写真映像や

Twitter言語+写真映像で

このことに触れているだけのぼくなので

のだ

そうだ

としか言えない

 

それらの言語+写真映像が

事実とやらを

ちゃんと伝達しようとしているのかどうか

ちゃんと伝達できないのはすでに数千年の文字言語の歴史が証明している)

ぼくにはわからないし

すでに

ずいぶんたくさんの故意の捏造言語+写真映像が出まわっているのは

見ている

 

いきり立って

ロシアとプーチン大統領を非難している人たちの

言語+写真映像が

ずいぶん目についてきた

まるで

真珠湾攻撃を受けた後

ついに戦争の必要性に目覚めたアメリカ人たちのようだが

それにしても

なんという

いきり立ちようだろう

イスラエルによる恒例のパレスチナ攻撃にも

アメリカによるイラク破壊やシリア破壊やアフガン破壊の時にも

いきり立たなかった人たちなのに

ユーゴ分解の際の戦争の時や

アフリカでたびたび起きる紛争や虐殺の際には

しっかりいきり立って見せてくれたものだろうか

 

第二次大戦の終わり頃に

満州から逃げ帰ってきた遠い親類を持っているので

ロシア兵をロ助と呼んで

いつまでも恨み骨髄の怨嗟を聞かされたぼくは

日本人のロシア嫌いも

KGB出のプーチン嫌いも

体感としてよくわかる

人はとにかくなにかを嫌悪したいものだし

じぶんが正義の側に立っていると見せたがるし

戦争をおっぱじめたと見えれば

それに反対するのも

おっぱじめたやつを嫌い侮辱する絶好の機会とばかり

ワッと飛びつくのも

ヒト科の習性として

まァわかる

わかる

 

しかし

たいした数でもない

マスコミに編集加工されまくった言語+写真映像だけ見て

いきり立つっていうのも

ショートテンパーとかいうやつではないのか

それともカルシウム摂取量が足りていないのか

よく連合赤軍なんかにいたようなタイプの

アレ

アレ

アレ

ではないのか

 

いきり立つのも

まァ

けっこうだが

(心臓や脳出血には注意したほうがいいだろうが)

多量の言語+写真映像を見て見て見て見て

それから

どれくらいそれらが本当らしいものか

ちょっとは判断できる方法論をちゃんと準備して

それを使いながら

多量の言語+写真映像を検討して

そうしてはじめて

いきり立つ

ようにしないと

まるで

バカ

ただの

バカ

八つぁん熊さんの世界

落語を演じているつもりなら

まァ

それでもいいけれど

 





スルリと


 

アメリカのホワイトハウスで

サキ報道官が会見で

ペロッと

「岸田総理大臣と日本政府は

プーチン大統領のウクライナ攻撃を非難するリーダー」

だと言ってしまった

ホワイトハウスは

日本の対露制裁表明を歓迎するとして

日本を神輿の

いちばん危険なところへ

スルリと

乗せてしまった

 

ロシアと敵対するリーダー役は

いつのまにか

スルリと

日本になってしまっている

なにしろ北方領土も「侵略」されているし

ロシアが使うかもしれない核兵器にしても

落された実体験を持っているのは日本だけだし

どうしたって

ここのところはリーダーとして

ロシアに立ち向かってもらわないといけない

となってきている

 

今たまたま主将の岸田がただのバカなのは

すでに

猛毒ワクチンをどんどん国民に打たせる路線しかとれないのでも露呈したが

他の諸国が少しでも楽な立場を得ようとする時にやはり

スルリと

損な大任を押しつけられて

この後はずるずると全戦費も日本が出すハメになっていくのが

もうわかり過ぎている

 

ウクライナの喜劇芸人大統領ゼレンスキーが

ここでもう一発

「日本とともにロシアに抵抗し続ける」

などと声明を出せば

ロシアが最初に核兵器を落す場所は

どう見ても

スルリと

日本

ということになっていくか

 

またまた

言っておかないといけないのだろうか?

 

さあ

ゲームのはじまりです!

スルリと

 

スルリと

 



2022年2月26日土曜日

だれだれだれ

 

 

たしかに

島田清次郎のことなど

もう

だれも知らない

 

新潮社の『新潮』の中村武羅夫と

社長の佐藤義亮が

新人書き下ろし作品として出版し

一大ベストセラーになった代表作『地上』四部作の

「第1部 地に潜むもの」

「第2部 地に叛くもの」

「第3部 静かなる暴風」

「第4部 燃ゆる大地」など

もう

だれも知らない

 

芥川龍之介が賞讃し

菊池寛が賞讃し

生田長江が賞讃し

徳富蘇峰が賞讃し

佐藤春夫が賞讃し

川端康成が賞讃し

「精神界の帝王」となった

大正から昭和はじめの大作家

島田清次郎のことなど

もう

だれも知らない

 

売り上げ総数は

当時として50万部

巨額の印税を得て

大正成金となった

島田清次郎のことを

もう

だれも知らない

 

どの時代にも

島田清次郎

 

現代なら

だれと

だれ

だれだれだれが

島田清次郎

 

 




至上の問いの時

  

 

書くためにだれかがいたこととか、読むだれかがいたこととか、どうでもいいんじゃない? 深いところでは、とても深いところでは、彼らは同じで、彼らはそのことをずっと知っていたんだ。

ル・クレジオ『愛する大地』

 

Qu’importe qu’il y ait eu quelqu’un pour écrire, et quelqu’un pour lire ? Au fond, très au fond, ils sont le même, et ils l’ont toujours su.

J.M.G.Le Clézio : TERRA AMATA  Prologue

 

 

 


ひさしぶりに

ロラン・バルトとモーリス・ナドーの

『文学とはなにか』*を開くと

ナドーが

モーリス・ブランショのことばを引いている

 

文学はどこへ向かうか?

それ自身へと向かう。

その本質へと。

すなわち消滅へと。

 

ぼくは驚く

 

若いことばだ

若い問いだ

 

歳を重ねれば

文学はどうでもよくなる

文学がどこへ向かおうとも

 

文学論を書いたり

対論したりして

小金を稼ぎ続ける業界人だけが

書生っぽのように

いつまでも

文学文学文学・・・

言うだけのこと

 

手にとった小説や詩が

おもしろいか

どうか

数ページ読んでみて

この先も

まだ読み続ける気になれるかどうか

 

業界人以外には

それだけが

重要な問いとなる

 

そして

それこそ

まさに

至上の問いというべきだ

 

たとえば

きみは

シャルル・ド・ゴール空港内の書店にいる

これからモスクワに飛ぶ

機内で読む本は持っている

いかにも「文学」な

分厚いプルーストの『ゲルマントのほうへ』も

最近のミステリー本も持っている

レヴィナスの哲学書さえも持っている

なのに

もう一冊か二冊

未知の世界に通じるような本を

搭乗前にほしいような気になっている

そうして

これまで購入するなど

思ってもみなかったような

もう一冊か二冊

の本に

出会いたくて

ふだんなら手に取らないような本を

つぎつぎと手にとり

めくっていく

 

至上の問いの時だ

 

 

 

*Sur la littérature

  (Roland Barthes+Maurice Nadeau, Presses universitaire de Grenoble,1980)






ぼく、現代詩と本と出版の敵


 

衣食が足りるとすぐに社会的に自己表現したがる。社会のなかでやはり上へ上へと出ようとするでしょう。それがやっぱりサークル詩ですよ。上へ上へー社会と同じ構図なんだ。それは違うんだな。芸事は物好きのすることですから。

「現代詩の問題点と方向」(インタヴューby渡辺武信)

『現代詩手帖』19663月号

 

 


 

 

大きくてかさばる本なのに

1978年初版の『堀川正美詩集19501977』は

いつもぼくの手元にある

 

年じゅう見るわけではないけれど

背表紙を目にしない日はない

 

たまに開いては

行き当たりばったりに出会ったページを

読んだり

わざと次のページのを

読んだり

 

詩集を読むっていうのは

こんなふうにするのが

いちばんいい

 

 

旧友の手紙・815

   わたしは今日セロリと牡蠣をたべた。
   酒はいつもよりのんだ。
   やがてまたしずかないらだちがひろがりはじめて波だち
   レモンのひときれのように浮かんだまま
   ずっと考えこんでいた。
   ひらかれっぱなしの新聞は入り組んだ部屋か
   知らない都会の地図にもみえた。
   また十年・また十年・また十年・また十年
   という例のしつっこい声がかすかにしつづけた
   わたしは居眠りをしたようで
   いらだちの親しい発信はどうしてかもうなくなっていて
   未知の夜のなかひとり目がさめ
   それで長いことじっとうごかないでいるばかりだった。
   いきなりわたしにはわかった。このさき、歳月
   為すに値するものがついになくなったのが……
   わたしは永遠に若いままでいるしかないのがわかった。

   悪趣味だと思わないでもない
   何もしないで生きてゆく――それを決意するとは
   死んだやつら、生きているやつらの
   魂に許しを与える最良の方法だ。
   このことに意味があるか?
   わたしは何ものにもならない。

   なんでも見る。

   たべて、のんで、ねる。
   それだけの話。
   香焚きこめて。*

 

 

ぼくは現代詩の敵を標榜しているけれど

つまらないダメダメな連中が

じぶんたちこそ現代詩だとわめいて

えらそうにしているから

 

でもこういう本物を読むと

かつて現代詩はたしかに存在して

何度でもしゃぶりたくなる甘露のような

味のあることばを追い求める生まれつきのぼくは

やはりそれらを

読むことになってしまう

 

堀川正美のこの詩では

うっかりすると

 

いきなりわたしにはわかった。このさき、歳月
   為すに値するものがついになくなったのが……
   わたしは永遠に若いままでいるしかないのがわかった。

ここに気持ちを惹かれ

ここを中心に読むことで

読みを落ち着けていこうとしてしまうが

この詩でほんとうにいいのは

冒頭の

 

わたしは今日セロリと牡蠣をたべた。
   酒はいつもよりのんだ。
   やがてまたしずかないらだちがひろがりはじめて波だち
   レモンのひときれのように浮かんだまま
   ずっと考えこんでいた。
  

のところで

「セロリと牡蠣」というあわせもすばらしいが

「酒はいつもよりものんだ」の

「いつもより」を加えてくるみごとさや

「やがてまたしずかないらだちがひろがりはじめて波だち」の

ちょっとやそっとでは書き記せないような

ひらがなを続かせた

だれもいない

じぶんだけいる浜辺のさざなみの打ち寄せそのもののような

ちょっと肌寒いような

早朝の浜辺で感じるしあわせのひとつのような

でも

もう数十分後にはやることが控えていて

この浜辺を離れていかないといけない時のような

せっつかれ感や

そこの時空に100%なりきってしまえない残念さが

ぼくらの意識に与えられているところ

 

出版や本というものへの敵であることも

ぼくは標榜しているけれど
こんな詩体験をさせてくれるのは

1978年初版の『堀川正美詩集19501977』という

この本の体裁あってこそだと思うと

偶然つくられた本のありようというのには

絶対性のようなものがあると

認めざるを得ない

 

出版されてから40年以上経ってみると

『堀川正美詩集19501977』は

まるで北原白秋の『邪宗門』さながらの

絶対的なありようを帯びて見える

紙や製本はもっと軽くしてもいいだろうが

ほかの体裁にしたり抜粋したりせずに

ほぼこの体裁のままで再版して

20世紀後半の日本の詩の成果として

そろそろ残していくべきだと思う

 

ぼくが言っておきたいのは

こんなこと

現代詩の敵で

本と出版の敵でなければ

思いつくこともできず

言えもしない

ということ

 

現代詩の敵で

本と出版の敵ならば

それ以外に無限に面白いものがあると知っていて

現代詩と本と出版なしで

地球滞在はいくらでも

何億輪廻でも楽しめると知っていて

それだからこそ

格別に価値のある現代詩と本と出版も

嗅ぎつけることができる

ということ

 




 

*『堀川正美詩集19501977』(れんが書房、1978)、pp.378-380