2021年5月28日金曜日

この時間のなかに


   

地球が善なるものだと

尊びすぎる

感傷的な

人たちがいる

 

大宇宙こそ故郷だとか

あそこへ帰っていくのだとか

さらに大がかりな

センチメンタルに走る

人たちも

 

かと思うと

此処だ!

今だ!

などと断言する

ああいった

例のタイプの

人たちも

 

生きることは簡単だ

どんな考え方を玩具にしてもいいと

わかれば

 

善も悪もなく

地球をどれだけ台なしにしても

宇宙をどれだけ誤解しても

どれだけむごたらしく人を殺しても

どれも

どうでもいいこと

どれも

一万年後には

痕跡も残っていない

わかっていれば

 

記録や記憶や歴史が

人間が手前勝手に認識できたり

人間の思うがままに役立たせたりできる時間枠は

せいぜい数千年

それ以上になると

こんなことやあんなことがあったらしいとは推測されても

もう固有名詞や顔や人となりは消え去っている

弥生人や縄文人や

クロマニョン人やネアンデルタール人の

だれだれさんの苦悩や喜びや

人類や地球にかけた思いなどを

だれがいま

正確な情報にもとづいて蘇らせられるだろう?

個人は消えている

もう何何人という括りでしか

現在の人間の思考では捉えられない

数万年以上過ぎれば

もう何何人という括りさえ消滅する

 

同じように

現在あるどのような文化も文明も

一万年後には

何何人の文化や文明としか捉えようはなくなる

個性は完全消滅する

個としての芸術家は消滅する

個としての思想家は消滅する

個としての科学者は消滅する

個としての政治家は消滅する

個としての実業家は消滅する

個としての建築家は消滅する

 

硬い石や岩で作ったなにかがごくわずかに残るかもしれないが

せいぜい

スフィンクスのような残り方をするだけ

メソポタミアの巨像のように残るだけ

署名を必死に刻んでも数万年後には解読もされない

解読されるには他の比較テキストを残す石板が必要だが

それらは都合よく残ってくれるだろうか

 

残す

という概念自体が

一万年以上経つと有効性を失って

自壊してしまう

 

人間という

地球上のアリの一種や

白アリの一種や

ダニの一種が

わさわさ大量に集まっている場に身を置いてみると

まるで

連中の思いや言動や作業や制作に

意味があるかのように

見誤るが

太古に作られたらしい巨石建造物の廃墟に立ったり

人造物だったらしい山や

市街でも存在したらしい広がりに立って

もうひとりの個も残っていないのを見れば

 

わかる

 

いま

どのような見方を選んで

あるとも

ないともいえる

この

時間のなかに

いたら

いいのか




わるいけどね そろそろ

   

街の音だって

せせらぎ

 

車のひっきりなしの音も

どこかの校庭で

笛を鳴らしている音も

工事の遠い響きも

 

わたしはわたしに必要なすべてを持っている

さらになにが来ても

なにかを手放しても

それらはもう増減しない

 

海や山や湖や草原の風景を求めたこともあった

 

もう求めなくてもいい

それらを目のあたりにして見続けていても

かなり前からそれらが染み込んで来なくなっているのを

わたしははっきりと感じていた

 

きれいなところね

と言われて

きれいなところだね

と返しながら

大きな壁に描いたペンキ絵にしか感じない

 

もっと美しい

いちいちの空気や温度や湿り気が

ひしひし

ぴちぴちと

わたしに浸透してくる

海や山や湖や草原の風景はわたしの

中というより

わたし

ぴったりと密着して

在って

わるいけど

わたし

もう

地球の海や山や湖や草原の風景

いらない

 

わるいけどね

 

そろそろ

ほんと

こと

言っちゃっていく




この世の掟


青い風に見えたので

無い川沿いにゆっくり追っていくと

あおみどりの風で

ほそい糸のようにスウーッと

伸びて行く

 

無い川沿いを追っていったので

無い脚で

ゆっくりゆっくり

行った

 

しばらく

楽だったよ

在る脚が言ったので

でも

あおみどりの風に

惹かれた時だけだよ

ちゃんと

言っておいた

 

無い脚で行くのは

低いところを飛んでいるようになるので

不思議な感触になる

気持ちいいので

いつも

無い脚でばかり行きたい気もするが

在る脚を

怠けさせてはいけない

 

それが

この世の





2021年5月25日火曜日

走馬灯のように

 

  

机に向かっていたら眠くなって

夕暮れ

机の上に脚を載せて

椅子に深く身を倒してすこし眠ったのだが

ちょっと不思議な眠りようで

今回の人生のすべてが

なんだか

走馬灯のようにめぐって

一覧できてしまった気がした

 

とりあえずは記してみながら

走馬灯のように

という紋切り型の表現に

やはり

われながら

ピンと来ない

これで済めば楽なのだが

馴染んでいないので

済まないのだ

プルーストなら使ったかもしれないが

今ではもう使えない

だいたい

あの人は日本の水中花なんかも比喩に使っていたが

日本人でありながら

水中花をまったく見たことがない頃に

プルーストのあの描写を読んだものだから

なんだか逆輸入みたいで

変な感じだった

 

走馬灯だが

だいたい

走馬灯というものも

ほとんど見たことがないので

紋切り型にせよ

たとえとして使いようがない気がする

 

たぶん

一度か二度

子供の頃に見たことがある気がするが

そうか

これが走馬灯っていうのかと

ずいぶん意識して

眺めたのではなかったか

 

ひとこと

走馬灯のように

で済めば

ずいぶん楽なのだが

こういう表現というのも

表現の命に限りがあり

使おうとするこちらよりも

とうに命運尽きているような気がする

 

今どきなら

スマホのSNSのタイムラインを

くるくる遡る時のあの感じのほうが

ふさわしいかもしれない




エゼキエル書外典


 

 

彼らはこの地を不法で満たし、

わたしの怒りをますますかき立てている。

  エゼキエル書817

 

 

 

東京の空気のなかに

いま

微妙に死臭が漂っているので

気持ちの備えをしておいたほうがいいかもしれない

 

日本への渡航中止を勧告した国があるが

もちろん

これから起こることへの備え

 

コロナではない

 

コロナどころではない

 

その国への重大な裏切りを行った者たちが

この列島に

身を隠しているので

 

すでに

なっていたのだが

日本こそが

第一の戦場になる

爆弾も

ミサイルも

落ちない

ものの

 

復興には

また

十年はかかるか……

 

世界中が哀れむこととは

これか……

 

もちろん

すべて

禍福はあざなえる縄のごとし

でもある

 

復興の十年のあいだに

世界の多くの場所が

消滅しているだろうから

まるで

塞翁が馬の

あの息子のように

ひとり先に身障者になって

かえって

生きのびられる

 

しかし

もう

立ち直れなくなる者が

あまりに

多いだろう





眠り


 

眠ってエネルギーが回復するのは

眠るということが

吸収しやすいエネルギーに効果的に触れる場だということであると

もっと繊細に考究されておいたほうがよい

 

人も生き物も眠りのうちに死んでいくが

あれは吸収しやすいエネルギーの池を通じてむこうへ

逆方向に流れ出ていくことだと見たほうが

よいかもしれない

 

眠りをこうした可塑的なエネルギーの池や

エネルギーそのものの通路と考え

それを通じてこちら側へ来ることもできれば

向こう側へ行くこともできる口とつねに捉えておくほうがいい





わたくしを老いぼれの餌食にさせない

 

 

高村光太郎の『智恵子抄』をひさしぶりに見ていて

死んだ智恵子を歌う「元素智恵子」をほんとうにひさしぶりに

たぶん数十年ぶりに読み直してみたら

言葉づかいはごつごつしているけれども

詩というのはこういうものだろうかなと思わされた


智恵子はすでに元素にかへった。
わたくしは心霊独存の理を信じない。
智恵子はしかも実存する。
智恵子はわたくしの肉に居る。
智恵子はわたくしに密着し、
わたくしの細胞に燐火をもやし、
わたくしと戯れ、
わたくしをたたき、
わたくしを老いぼれの餌食にさせない。
精神とは肉体の別の名だ。
わたくしの肉に居る智恵子は、
そのままわたくしの精神の極化。

 

大事な人が亡くなっても

その人に接していたこちらの心の中の窓口や土台や

ソフトやアプリのようなものは残り続ける

それが機能し続ける結果として

人間の脳はさまざまな外界の現象の上に

死んだ人の感触を発生させ続ける

なるほど

こういう現象を扱った言葉を詩歌として保存すれば

多くの人の共感を呼び続けるに

ちがいないだろうな

と思わされる

 

詩が素直だった時代ならではの詩

というものがあり

結局

そういう詩に

こまっしゃくれた詩はことごとく負けていく

戦後詩も現代詩も

まったく読まれなくなったということを

詩歌に惹かれる人たちは

ほんとうに大ごとに思ったほうがいい

 

わたしが自由詩形式を使ってみようと思ったのは

ザ・ビートルズや

マザーグースのような

純然たるフィクションや

お遊びや

ナンセンスが書きたかったからで

詩なんて

もうランボーで終わってるじゃないか!

よくよく悟ってからのことだった

 

ガルニエ版のランボー詩集をいつも抱えて

80年代の東京を彷徨っていたが

いまさらランボーのように書いてもしょうがないし

そうしたらブルトンたちのようになっちゃうだけだし

そうしたらひたすら読まれない詩歌への道筋まっしぐらだし

といったことを考えて

ザ・ビートルズや

マザーグースや

せいぜいボブ・ディランかな

などと思いながら

しかし

ランボー詩集だけはつねに抱えていた

 

高村光太郎なんて

とうの昔に馬鹿にして

卒業!

なんて思って本も手放していた頃

渋谷のセンター街には萬葉会館なんていう飲食店ビルがあって

便利だったので

よく食べて帰ったものだった

井の頭線で

池の上へ

 

だいぶ歳月が経って

高村光太郎の

あれでも

よかったのかもしれない

少なくとも

日本ではあっちのほうが残るよ

今は

思わされる

 

智恵子はわたくしの肉に居る。
智恵子はわたくしに密着し、
わたくしの細胞に燐火をもやし、
わたくしと戯れ、
わたくしをたたき、

わたくしを老いぼれの餌食にさせない

 

という光太郎の詩句が

今は

わかってきている





トランジット

 

 

ずいぶんはっきりした夢であった

 

四畳半の下宿に住むことになった

共同廊下との間には磨りガラスの引き戸がある

日本の住宅の部屋の仕切りによくあるような

小さな正方形のガラスを集めた戸である

 

カーテンがあるがふだんは開けておいてもいい

とはいえカーテンを開けておいたからといって

共同廊下の暗さがガラス戸の向こうには見えるだけだ

これならばカーテンは閉めておいてもいい

 

室内を照らす蛍光灯のスイッチは廊下にあるので

引き戸の端をいちいち細く開けて手を出し

パチンパチンとスイッチで点灯消灯をしないといけない

深夜に寝る時にやるのはちょっと不気味かと思う

 

部屋の壁に付いている小さな丸い蛍光灯もあるが

このスイッチは室内にあるので操作は楽である

しかし点灯してみると光量は少し少なくて

これだけで夜を過ごすと暗いかもしれないと思う

 

部屋からは外に面して大きな窓と小さな窓がある

大きな窓からはよその家の天井が見えるので

この四畳半の部屋は二階にあるらしい

室内は明るいが簡易ベッドを置くと手狭である

 

いろいろなことがあった人生だったが

結局ひとりでここに住むことになったか

つくづくという感じでそう思い過ぎてきたあれこれを

思い出そうとするがまったく思い出せない

 

仲の良かった人たちもずいぶんいたし

同棲もしたし妻もあったような気がするが

誰のことももうちゃんとは思い出せない

しかしそんな人たちとの時間はちゃんとあったと感じる

 

学生だった若い頃に友人の住まいに行くと

こんな四畳半に住んでいた人たちもいたなと思い出す

人生の終わりにはふたたびこういう狭さに戻るのかと思い

これが終の住処というやつだろうかと見わたす

 

起きるともちろん四畳半にはいない心身を取り戻す

しかしあまりに現実的でリアルだったので

じぶんの魂はもうあの四畳半に移動しているのかとも思うが

終の住処ではなくトランジットと見たほうがいい感覚がある