2025年4月8日火曜日

蜜蜂の比喩


  

 

「愚かさとは、結論せずにはいられない心の動きにもとづくものだ」

   (La bêtise consiste à vouloir conclure.)

とフローベール(Flaubert)は書いていたが

モンテーニュ(Montaigne)もまた

「愚か者だけが、確信し、決めてかかる」

 (Il n’y a que les fols certains et résolus.

と言っている

 

『エセー(Essais)』の

「子供の教育について」(De l’Institution des enfants

という章のなかで

 

どんな教師がよい教師か

というのが

核心となるテーマだが

「一杯につまった頭より、よく出来た頭」

plutôt la tête bien faite que bien pleine

を持つ教師だ

とモンテーニュは書いている

 

この章には

有名な「蜜蜂の比喩」が語られているが

読み返してみると

情報ばかり掻き集めればいいと言われがちな現代で

よくよく思い出し直しておくべきことが

書かれている

 

蜜蜂たちは、あちらこちらで花から蜜をくすねて、その後で蜂蜜を作る。その蜜はすっかり彼ら自身のものになっていて、もはやタイムのものでも、マジョラムのものでもない。同じように、学徒は、他の人から借りてきたいろいろな断片を変容させ、混ぜあわせて、完全に彼のものであるひとつの作品とする。そこに、彼の判断力は現われるのだ。彼の教育も、勉強も、練習も、そうした判断力を形成するためのものでしかない。

 

Les abeilles pillotent deçà delà les fleurs, mais elles en font après le miel, qui est tout leur ; ce n’est plus thym ni marjolaine : ainsi les pièces empruntées d’autrui, il les transformera et confondra, pour en faire un ouvrage tout sien : à savoir son jugement. Son institution, son travail et étude ne vise qu’à le former. 

 

肝要な点は

変容し

混ぜあわせる

というところに

ある

 

あちこちの花から

いろいろな蜜をくすねてきていい

しかし

じぶんのなかで変容させ

混ぜあわせるまで至っているか

もはや

どの花の蜜でもない

じぶんだけの蜜に

しっかり変えられているか

 

 

 



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