2025年3月5日水曜日

むしろ老人の愚行が聞きたい

 

 


 

大江健三郎の『さようなら、私の本よ!』には

エピグラフとして

TS・エリオットの『四つの四重奏』から

西脇順三郎の訳で

 

もう老人の知恵などは

聞きたくない、むしろ老人の愚行が聞きたい

不安と狂気に対する老人の恐怖心が

 

引用されている

 

第九章の4には

さらに長く

 

もう老人の知恵などは

聞きたくない、むしろ老人の愚行が聞きたい

不安と狂気に対する老人の恐怖心が

とりつかれることを嫌う老人の恐怖心が聞きたい

他の一人のものになり、他の人々のものになり、神の

ものになることを恐れる老人の恐怖心が。

 

と引用されており

小説の締めくくりには

 

老人は探検者になるべきだ
現世の場所は問題ではない
われわれは静かに静かに動き始めなければならない

 

やはり

西脇順三郎の訳で

引用されている

 

「老人」という認識や自覚はともかく

 

現世の場所は問題ではない

 

はちょっと面白い

これは

『四つの四重奏』の

「イースト・コウカー」の

この部分にも

通じているだろうか

 

わたしはいちど言ったことを
繰り返しているときみは言う。もういちど言おう。

   もういちど言おうか。そこに達するために、
   きみのいるところに、きみのいぬところから達するために、
    きみは歓喜のない道を行かねばならぬ。
   きみの知らぬものに到達するために
    きみは無知の道なる道を行かねばならぬ。
   きみのもたぬものをもつために
    きみは無所有の道を行かねばならぬ。
   きみでないものに達するために
    きみはきみの存在しない道を行かねばならぬ、
   きみの知らぬものが、きみの知る唯一のもの。
   きみのもつものが、きみのもたぬもの。
   きみのいるところが、きみのいぬところ。*

 

ちょっと

「わたし」や「きみ」がうるさいが

主語の明示を要求する英語の性質上

しかたがないと見るか

それとも

訳者の芸風と見るか

 

同じ『四つの四重奏』でも

「バーント・ノートン」のほうは

もうすこし

うるさくない

 

言葉は動く、音楽は動く、
   ただ時間の中を。だが、ただ生きているだけのものは

死ぬことができるだけ。言葉は、語られてのち
沈黙に変わる。形によって、型によって初めて
言葉は、また音楽は、静謐に達する、
まるで支那の古甕が永遠に動きながら
その静寂を保ちつづけるように。それは
楽譜が続いているあいだのヴァイオリンの静けさではなく、
それだけではなく、共に存在すること、
いわば終わりが始めに先行し、初めの前と終わりに後に
常に終わりと初めがあるような静けさ。

すべては常に、今、存在する。*

 

『四つの四重奏』の

「ドライ・サルヴェイジス」のほうには

こうある

 

齢をとるにつれて、過去というものにはどうやら
もう一つの型があり、それは単なる連続ではなく、

まして進歩などではないように思えてくる。進歩とは

浅薄な進化の観念に唆された思い込み、それが

凡俗の心の中で、過去を捨てる口実になっているのだ。

幸福の瞬間————健やかな生活の意味ではなく、
成就、満足、安心、あるいは愛情でもなく、
また美味しい晩餐でもなく、突然の光明————
わたしたちは経験は手に入れたが、意味を取り逃がした、
意味に近づければ、わたしたちは、その経験を
わたしたちが幸福に与えるどんな意味をも超えた形で
取り戻せるのに。まえにも言ったことだが、
意味の中に甦った過去の経験は
一人の生涯の経験にとどまらず
幾つもの世代の経験でもある。それは、
たぶん言葉では言い表せぬものを記憶している *

 

「経験は手に入れたが、意味を取り逃がした」

というのは

なかなかうまく言っているが

現代の問題は

チープな紋切り型の「意味」に

あらゆる経験を落とし込んで足れり

と誰もがやってしまっているところにあり

むしろ

「意味を取り逃が」すことのほうに

生の可能性は掛っていた

 

ドゥルーズの

「人生という名の生きそこない」

という言葉が

思い出されてくる

 

ドゥルーズに流され過ぎないように

『四つの四重奏』の

「リトル・ギディング」も

思い出しておこうか

 

われらが初めと呼ぶものはしばしば終わりであり、
終えるということは始めるということ。
終わりとはわれらの歩み出るところ。すべての句と文は
もし正しいものならば(一語一語がその所におさまり、
互いに仲間を支える役目を果たし、
それぞれ含羞みもせず、見栄も張らず、
古いものと新しいものが自然に交わり、
話し言葉は適切で卑俗に陥らず、
書き言葉は厳正でしかも衒いなく、
みんなで手を携えて舞踏する全き同輩)————
すべての句と文は、その一つ一つが終わりでありまた初め、
すべての詩は墓碑銘。そして、すべての行為は
断頭台への、火への、海の喉への、あるいは
誰のものとも判らぬ墓石へと一歩。そして、どこがまた歩み出るところ。
われらは死に行く者とともに死す、
見よ、彼らは去る、そしてわれらも彼らと行く。
われらは死せる者とともに生まれる、
見よ、彼らは甦る、そしてわれらを共に連れ去る。
薔薇の時と水松の時は
同じ長さの時間。歴史のない民族は
時間から取り戻されることはない、歴史とは
無時間の一刻一刻の型なのだから。*

 

「すべての句と文は

もし正しいものならば」

「すべての句と文は、その一つ一つが終わりでありまた初め」

こそ

切実な吐露と

見える

 

リアルだ

 

「すべての詩は墓碑銘」

言い過ぎかも

しれない

 

エリオットの後に来る

ジャック・プレヴェールの

後では

 

ましてや

ぼくらは

樹木葬だの

散骨だのの時代に

いるのだ

 

“中東のリビエラ”にされた後の

ガザに

墓碑銘は残るのか

とも

思いは引き延ばしていかないと

いけない

 

 


 

*岩崎宗治訳

 

 




米の相場が何んぼするか知って居るか

 

 

 

長州藩家老として

幕末の長州藩改革に努めた村田清風は

吉田松陰の師でもあったが

江戸に出た際には

塙保己一や海保青陵に学び

経世論から

兵法や

海防策まで身につけたという

 

長州から江戸に出る時に

もちろん富士山を見たのだろう

こんな歌を残している

 

来て見ればさほどでもなし富士の山

釈迦や孔子もかくやありなん

 

これは

孔子の弟子の顔淵が

「舜何人ぞや、予何人ぞや」

と発したのに通じる

 

中国の五帝のひとりの舜も

じぶんも

同じ人間ではないか

というもので

強い志さえあれば

じぶんも舜のようになれる

として

自らを発憤させた言葉となっている

 

村田清風は

先見の明があった人で

黒船も来ないうちから

軍備を整えようとしたという

藩政改革を済まし

隠居しても

なおも文武の稽古に勤しんだ

 

久坂玄瑞の友の赤川淡水が

訪ねてきた時

赤川が地理を研究したいというので

「磁石を持っているか」

と村田は聞いた

持っていないと赤川が言うので

「馬鹿な奴だ」

と村田は叱った

「地理を研究するのに

磁石を持って歩かぬような人間に

地理の研究が出来るか。

攘夷攘夷と云うが

米の相場が何んぼするか知って居るか

そんなことで

攘夷も何も出来るものか」

 

村田清風なら

釈迦や孔子に対しても

「米の相場が何んぼするか知って居るか」

と叱ったかもしれない

 





淡雪や霙が

  

 

都心でも

淡雪や霙が降った

 

夜遅く

いつものように

スーパーマーケットに買い物に出たが

霙の降るなかでも

たいして寒くはなかった

 

これでは

大雪になど

なるわけがない

 

それでも

積雪注意だの

予防的通行止めだの

道が滑りやすいだの

車のタイヤに注意がいるだの

ニュースは煽り続けている

 

馬鹿じゃなかろうか?

 

10年も20年も前なら

20センチほどの積雪でも

大騒ぎはしなかった

電車も車も平気で動いていたし

子どもは滑って転ぶのを楽しんだ

都内でもひと月ほど雪が溶けず

細道や日陰に雪の塊が残り続けた

 

社会が決定的に軟弱化している

 

テレビやラジオは

何十分でも

注意注意注意注意注意注意注意注意注意と

連呼し続けで

自動車はふつうのスノータイヤではダメで

スタッドレスタイヤにしなければダメで

それでも足りずにさらにチェーンを巻けという

歩行者はふつうに歩いてはダメで

ペンギン歩きをせねばならず

さらには外出を控えるべきだという

 

馬鹿じゃなかろうか?

 

こんな軟弱化し切ったニャッポンジンを

今年は大災害が襲う

はやければ5月には兆候が始まり

6月には大雨による氾濫や洪水が各地で起こり

7月にはそこに大地震と津波が来る

8月9月と大地震は続き

関東から東海や紀伊半島にかけては

ふつうには暮らせなくなる

電気ガス水道電話は途絶え

自動車は使えなくなる

災害での即死者にくわえて

厖大な数の傷病死や餓死が出る

軟弱化した報いである

 

都心でも

淡雪や霙が降った

たいして寒くはなく

むしろ穏やかな空気のなかの

春の雪であり

春の雨であった

 

 



トランプを騙しに行ったゼレンスキー

 

 

 

EUなんてクソくらえだ」

 ヴィクトリア・ヌーランド

 

 

 

 

アメリカ陸軍の元国防情報局中佐トニー・シェイファーによれば

ゼレンスキーはすでに1月17日に

イギリスの首相スターマーと

ウクライナの鉱物資源を100年にわたってイギリスに供与する合意を

締結してあった

 

鉱物資源だけでなく

イギリスとウクライナ両国間の

防衛・安全保障・エネルギー政策・インフラを含めて

「利益を最大化」する合意となっている

 

ゼレンスキーは

最初から

トランプを騙しに行ったのだった

 

トランプとヴァンスは

もちろん

これを知っていて

ゼレンスキーとの合意が流れるように

会談を運んだのだろう

 

たしかにウクライナには

鉱物資源が豊富で

希土類元素(レアアース)も豊かだが

これはじつは世界中に入手可能な場所がある

 

ウクライナの重要なリチウム鉱床は

東部のドネツク地域にあって

ここはロシア軍に押さえられている

ランタン、セリウム、ネオジムなどのレアアース元素を含む鉱床も

多くはロシア占領下の地域に位置している

長期的には手に入れたくても

採掘や開発の困難さを考えると

無理に急いで手を出す必要はない

アメリカとしてはプーチンと取引して

ロシアから鉱物資源を買ったり

ロシアによる開発や採掘を援助したほうが賢明だろう

ヨーロッパにはウクライナ開発の資金はなく

工作員を使ってヨーロッパ各国内でイスラム紛争を次々起こせば

ウクライナ問題への取り組みは総崩れとなる

 

ところが

この流れに沿いつつアメリカの長期の活動を俯瞰し直そうとすると

ウクライナを破壊して戦争に引き込んだ最大のキーパーソン

ヴィクトリア・ヌーランドの陰謀を

トランプがそのまま巧妙に引き継いでいくのが見えることになって

なるほどアメリカのやり口というのはこういうものか

と感心させられる

EUなんてクソくらえだ」というヌーランドの発言は

そのままトランプが言ってもいい言葉で

トランプを騙しおおせたつもりのゼレンスキーとスターマーは

五次元チェスの得意なトランプに対し

危険な賭けに出てしまったことになるだろう

軍略のダメなドイツは捨て置くとして

長きにわたり軍略に秀でた政治家や軍人を輩出してきた

イギリスやフランスがどのように応戦するか

これから楽しい観戦の日々となるだろう



 

 

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2025年3月4日火曜日

玄関の結婚写真

 

 

 

深夜から朝方にかけて

住まいとしている高層ビルの地下に

ゴミを捨てに行くことが多い

 

帰ってきて玄関に入り

わきの棚に置いてあるものを

特に必要もなく

見まわす

 

もう16年も昔に自殺した悪友があったが

彼の七里ヶ浜の家に行った時

玄関正面に麗々しく結婚写真が掛けられてあった

未知の人も入って来る玄関正面に

こんな大きな結婚写真が飾ってあっては

よくない波動も受けてしまうかもしれないと

これを見ながら思わされた

 

まだ三歳ぐらいだった息子に

毎日ポテトチップスをひと袋与えるというので

からだによくないのではないかと言うと

こうしておけば静かでいてくれるからと答えた

夫婦仲は悪化していたようで

妻の愛人になってやってくれと真顔で頼まれた

息子が生まれる時

家で破水が始まったというのに

夫である彼は論文執筆で動こうともせず

奥さんは自分で救急車を呼んで

ひとりで病院へ運んでもらったと言い

そのことは絶対に許せないとくり返した

 

じぶんの家の玄関を見たり

他のひとの家の玄関を見るたび

あの悪友の玄関の結婚写真を思い出してしまう

 

毎日先祖への感謝礼拝をする時に

じぶんや先祖に関わりのあった

他の諸霊への礼拝も行う

その際に何人かについては名前を唱えて

彼らが生かされたことについての感謝礼拝を

天照大御神に捧げる

 

死んだ悪友についても最近

感謝礼拝のひとりに加えるようになった

彼を生かしていただいてありがとうございます

と天照大御神に感謝礼拝をする

 

名前をあげて礼拝する人数も七人に上るようになり

朝からけっこう時間がかかるようになった

火を点けて灰に立てた線香が

五ミリから七ミリほど燃えてしまっている

総体としてまず「その他もろもろの霊の方々」と

先に礼拝もしているので

時間のない時などは

個別に名を唱えて礼拝する必要もないのだが

ちょっとでも余裕のある時は

いちいち名を唱えてひとりひとりについて

彼らの生存したことについて

またこの世の現象界で不在となったことについて

彼らにかわって天照大御神に感謝をしていく

 

 



欧米かっ?

 

 

 

問題となった

ゼレンスキーとトランプの会談の前に

国際政治の場というのに

ゼレンスキーがスーツを着て来なかったことについて

批判というか

いたぶりが出たことは

最高に面白かったし

考えさせられた

 

ゼレンスキー擁護派は

ウクライナが戦時にあるので

スーツは着ないのだ

と弁護する

 

第二次大戦中のチャーチルも

軍服で通した

と雑学を持ち出す者もいる

 

他方

戦時にあっても

プーチンはスーツ姿だと

ゼレンスキー憎悪派は

持ち出してくる

 

外交において

スーツを着なかった人としては

チェ・ゲバラが思い出されるが

カリスマ性とスター性という点で格段の差があるゲバラを

ゼレンスキーごときと比べては

ゲバラに申し訳ない

 

本当の軍人だったド・ゴールを持ち出すのも

やはり

ド・ゴールに失礼だろう

 

スーツは

なんといっても

ヨーロッパ優位の思考から来るので

ゼレンスキーが拒むのは

アジア人としては小気味よいところがある

かといって

いまのゼレンスキーが来ているような

パジャマやジャージっぽい

というか

ユニクロや無印がお得意とするような

やわらかピッタリ素材のトレーナーふうの服も

やはり欧米風味なので

「欧米かっ?」

とオヤジギャクを洩らしたくなる

 

スーツを着ないのなら

民族衣装を着ればいいのだし

ウクライナの民族衣装は

女性用のものは

きれいでかわいいのがいっぱいあるだけでなく

男性用のものも

なかなか立派で引き立つ

それをアレンジして着てくればいいのに

それができないところが

ロシア語で生きてきたユダヤ人の彼にはある

 

スーツを着ないのは勝手だが

ジャケットぐらい着ないと

日本のフランスレストランにも入店できないし

相手方がよく思わないのは

もちろんわきまえておかないといけない

オスカー・ワイルドは

「人を外見で判断しないのは愚か者である」

とアイロニーに満ちた警句を放ったが

「人を外見で判断してはいけません」的な理想的人間観などは

いまだに地球上では根を下ろしてはいないので

性悪説にしっかり根ざして

馬鹿や意地悪や悪党のたむろするアメリカなどには

やはりスーツを着て行ったほうが身のためである

 

「欧米かっ?」の最たるものであるスーツを

わたしは嫌悪し馬鹿にしていて

アホラシ!アホラシ!アホラシ!アホラシ!アホラシ!のn乗分を

つねに思っているが

それでも職場ではつねにスーツで

労働争議の団体交渉などでもスーツであった

理由は簡単で

スーツさえ着ていれば

後は才気煥発に批難を繰り出してディベートすれば

優位に立てるからである

社会ではスーツは制服であり軍服であって

最近はそれが崩れてきているとはいえ

日本のような旧式を尊ぶ腐敗した沼水社会では

スーツの威力は無視できない

 

わたしの属した労働組合の委員長は

左翼中の左翼で

この男と長くつき合うことで

わたしは左翼のどうしようもなさを実地で学ぶとともに

もともと何の親近感も持っていなかった右翼や保守を装うことを身につけ

左翼に対してつねにいたぶりをかける術を身につけた

 

なにかというと

「ミシマ先生が命を賭しておっしゃっていたことは云々」と呟き

11月になると

「ミシマ先生の憂国忌が近づいてきましたな」

などと洩らすと

日本のダメ左翼連中は黙るのである

わたしの場合は18世紀啓蒙主義のほうが身に添うし

フランス革命期の超過激派のジャコバン派を日本に根付かせたい

としか政治的には思っておらず

ジャコバン派から見て日本の左翼など粛清すべし

と断じているので

三島由紀夫の自殺になんの価値も見出さないし

いろいろと情報を錯綜させて混線してしまった末の

思念的エロスに惑溺してしまった思想整理不能に陥った病人

としか彼を思えず

もっと簡単に言えば

馬鹿ではなかろうか?

としか思わないが

(とはいえ愚劣な日本にあってはいつもミシマは使いようがある)

わざと右翼を装って

左翼や左翼っぽい連中には

「ミシマ先生が……」と言ってやるのである

 

スーツを着ていないことを

チクリとやられたゼレンスキーは

本当なら

どうして国際政治の場で西洋着のスーツがプロトコルなのか?

と本質論を問えばよかったのだが

西洋そのもののNATOに色目を使う必要上

こうした反撃はできなかった

ウクライナは西洋ではないというのに

西洋に媚を売って入れてもらおうとする時点で

ゼレンスキーは負けているのだし

彼の立場は土台から崩れている

ヴァンス副大統領のイチャモンに対して

ロシア語で侮蔑文句を吐いたのがマイクで拾われていたが

ここはどうしてもウクライナ語で吐くべきだった

ウクライナ語の不得意なロシア文化育ちが露呈してしまっては

プーチンから深く深く送り込まれた工作員であることが

そろそろバレてしまうよ

と諸葛孔明なら助言をしてやっただろうに

 

ゼレンスキーの任務は

ウクライナに英仏独を引き込んで

じわじわと衰弱させ

弱体化したヨーロッパを内部のイスラム勢力によって喰わせ

イスラムも平気で取り込めるロシアや中国やアメリカによって

ヨーロッパ全土を分割させることである

このためには

英仏独がいきり立って戦争に前のめりになることが望ましい

今のところ

事はうまく進んで行っていると言える

 

世界中を植民地化して荒らし回ったヨーロッパを

徹底的に如何に潰すか?

そこに人類的な真の課題があり

このためには

13世紀に一度はモンゴル人に滅ぼされた

スラブ人とハザール族を戦わせて

モンゴル人よりも先にヨーロッパ侵略を行った

ポーランド人やリトアニア人や

ゲルマン民族やハンガリー人やブルガール人なども巻き込んで

ヨーロッパから派生した鬼っ子のアメリカを活用するのが理に適っている

 

もちろんモンゴル人の後にヨーロッパ侵略を目指したトルコ人も

ここには大いに復活参戦してきてもらいたい

トルコ人はかつては

セルビア人やブルガール人やクロアチア人や

スロヴェニア人やアルバニア人やハンガリー人を征服し

ウィーンまで到達したが残念ながらそこで財源が尽きてしまった

 

かつてのモンゴル人やトルコ人の役を担うのは

現在ならばどこか?

 

たぶん

ヨーロッパにすでに入り込んでいる者たちが

内部から生活文化的に崩していくのが

もっとも有効だと言えるだろう

 

トランプによって新生したアメリカが

ケネディ暗殺後のDS支配体勢に向けて維新を起こし

賢明にもサッとウクライナから身を引き

英仏独にウクライナへの財源と兵力の蕩尽を負わせて滅びさせていくのは

建国時の才気を思い出させる楽しさではないか

そもそもアメリカほどイギリスの敵だった集団はないのだし

 

「敵が間違いを犯して滅んでいく時に邪魔をするな」

とナポレオンは

言ったとか

言わなかったとか

 

アジア諸国や

中東諸国や

アフリカ諸国は

この言葉を思い出して

今こそ賢明に

邪魔をせずに

ヨーロッパの死を見つめておくべきだろう