マラルメが
(23歳の若き日の冬のことだが……)
「凍てつくような、いやな風のために
散歩もできないので、
わが憐れな脳髄が仕事を私に禁止するとき、
私は家にいて、
何をしてよいかわからなくなる」
と
友人カザリスへの手紙に
書いたことがあった
「鏡に映る自分のぼやけた生気のない顔を見ると、
鏡の前から後ずさりしてしまう。
自分が空虚だと感じて泣くこともあるし、
頑として白い、わが紙の上に、
ただの一語も書きつけることができない。」
とも
書いていた
あのマラルメが!
この手紙のすべてを
引用しておこう
アンリ・カザリス宛
トゥルノン、木曜日夜[一八六五年一月]
アンリ、私は従来、夜の時間を仕事に捧げてきた。だから、
――私は悲しいのだ。凍てつくような、
それに、自己嫌悪だ。
自分の愛する人々は皆、光と花々に囲まれ、
たしかに、あらゆることが与って、私を無感応におとしいれた。
半月も外出をしないと、私は、つい鼻先にある学校と、
何ごとかを意志することを、かつて知らなかった私だが、
これが私の生活を毒している。こんな屈辱感の後では、
しかし、このような歎きは、君にとってさえ、
ご機嫌よう。私たちは三人して君を抱擁しょう。
マリーは疲れているし、
ジュヌヴィエーヴは、かわいそうに、
ステファヌ
マラルメの詩は
魅力的ながら
フランス語原詩は
どこもかしこも
文法的にも
意味的にも
パズルのようで
いろいろな意味で読みづらく
心惹かれる愛好者は
吉田健一がそうであったように
まずは暗誦してしまう
というのが
最良のつき合い方かもしれない
しかし
マラルメ自身の生活は
彼の詩をつらく感じる人たちにも
おそらく
もっとおもしろい
詩作を続ける方便として
中学の英語教師となることを選んだものの
低い地位や低収入のゆえに
最初から家族には反対されるし
妻となるドイツ人マリーとの恋愛の際にも
貧困を憂いている
裁判所判事のドイツ語家庭教師だったマリーとは
ロンドンへむけて逃避行もしており
着いて早々に病臥したり
盗難に遭ったりと
詩作からは想像もつかない冒険が
マラルメの人生にもあった
1865年1月のこの手紙の翻訳は
マラルメ学者の松室三郎によるものだが
松室先生のマラルメ講義には
大学時代に毎週顔を出していた時期があった
やや額が後退しはじめていて
だいぶ白髪が多くなってきており
いつも茶系の温かみのある地味なスーツ姿で
(たしかワイシャツはつねに白だった)
温厚な性格と語り口で
緻密な読解や解釈を続けるのだが
他の人の解釈を例に挙げて過ちを指摘し
よりふさわしい解釈を語る時など
時どき昂ぶった口調になることもあった
だいたいは5人や6人ほど
多くても
せいぜい10人ほどしか集まらない
小さな教室での毎週の時間が
フランス文学というものの神髄の降臨する時間のようで
貴重にも感じられれば
不思議な幸福感のある隠れ処のようでもあった
その教室のある校舎は
廊下も板敷きなら教室内も板敷きで
歩くと木の音がすることがあった
コンクリートやリノリウムなどとは違って
板敷きの上を歩く時は
学生は緊張して
少しでも音を立てないようにと
心がけたものだった
講義が終わって
荷物をバッグに仕舞うのに少し手間取って
ひとりだけ
最後に
板敷きの廊下に出て行く時
晩秋の頃など
いわく言いがたい圧倒的な憂愁があった
親しい友らは
松室先生のマラルメには
敬遠して顔を出したりしないので
校舎を出て行く時は
いつも
ひとりだった
大学の門を出て
駅のほうへ向かってしばらく行くと
学生のたむろする安めのコーヒー店があって
そこではふたつ丸いソファがあり
押しくら饅頭のようにピッタリ寄り合って座りながら
いつも10人から15人ぐらいが
しゃべりながらコーヒーを飲んでいたり
ひとり黙って本を読みながら飲んでいたり
中には立って飲んでいる人もいた
たしかブレンドが一杯150円ほどだったのではなかったか?
コーヒー豆を売る店が
客寄せに安価にブレンドを提供していたのだった
松室先生のマラルメの後も
そのコーヒー店を覗いてみて
だれか友だちがいれば寄っていき
いっしょに一杯飲んで
あれやこれやの文学話や哲学話をしたものだが
話が長くなるようなら
他のもっとちゃんとした喫茶店に移って
モカだのマンダリンだの
キリマンジャロだのと
ちゃんとしたものを頼んで
閉店近くまで話したりするのだった
不思議な充実した時間の包みのなかに
すっぽりくるまれているようで
――というよりも
時間の流れというものがまるでないような
分厚い透明な球のなかに居続けているようだった
むなしさもなく
苦しみもなく
おもしろいことばかりで
知りたいことばかりで
学びたいことばかりで
ただひたすら青二才であった