大江健三郎の『さようなら、私の本よ!』には
エピグラフとして
T・S・エリオットの『四つの四重奏』から
西脇順三郎の訳で
もう老人の知恵などは
聞きたくない、むしろ老人の愚行が聞きたい
不安と狂気に対する老人の恐怖心が
と
引用されている
第九章の4には
さらに長く
もう老人の知恵などは
聞きたくない、むしろ老人の愚行が聞きたい
不安と狂気に対する老人の恐怖心が
とりつかれることを嫌う老人の恐怖心が聞きたい
他の一人のものになり、他の人々のものになり、神の
ものになることを恐れる老人の恐怖心が。
と引用されており
小説の締めくくりには
老人は探検者になるべきだ
現世の場所は問題ではない
われわれは静かに静かに動き始めなければならない
と
やはり
西脇順三郎の訳で
引用されている
「老人」という認識や自覚はともかく
現世の場所は問題ではない
はちょっと面白い
これは
『四つの四重奏』の
「イースト・コウカー」の
この部分にも
通じているだろうか
わたしはいちど言ったことを
繰り返しているときみは言う。もういちど言おう。
もういちど言おうか。そこに達するために、
きみのいるところに、きみのいぬところから達するために、
きみは歓喜のない道を行かねばならぬ。
きみの知らぬものに到達するために
きみは無知の道なる道を行かねばならぬ。
きみのもたぬものをもつために
きみは無所有の道を行かねばならぬ。
きみでないものに達するために
きみはきみの存在しない道を行かねばならぬ、
きみの知らぬものが、きみの知る唯一のもの。
きみのもつものが、きみのもたぬもの。
きみのいるところが、きみのいぬところ。*
ちょっと
「わたし」や「きみ」がうるさいが
主語の明示を要求する英語の性質上
しかたがないと見るか
それとも
訳者の芸風と見るか
同じ『四つの四重奏』でも
「バーント・ノートン」のほうは
もうすこし
うるさくない
言葉は動く、音楽は動く、
ただ時間の中を。だが、ただ生きているだけのものは
死ぬことができるだけ。言葉は、語られてのち
沈黙に変わる。形によって、型によって初めて
言葉は、また音楽は、静謐に達する、
まるで支那の古甕が永遠に動きながら
その静寂を保ちつづけるように。それは
楽譜が続いているあいだのヴァイオリンの静けさではなく、
それだけではなく、共に存在すること、
いわば終わりが始めに先行し、初めの前と終わりに後に
常に終わりと初めがあるような静けさ。
すべては常に、今、存在する。*
『四つの四重奏』の
「ドライ・サルヴェイジス」のほうには
こうある
齢をとるにつれて、過去というものにはどうやら
もう一つの型があり、それは単なる連続ではなく、
まして進歩などではないように思えてくる。進歩とは
浅薄な進化の観念に唆された思い込み、それが
凡俗の心の中で、過去を捨てる口実になっているのだ。
幸福の瞬間————健やかな生活の意味ではなく、
成就、満足、安心、あるいは愛情でもなく、
また美味しい晩餐でもなく、突然の光明————
わたしたちは経験は手に入れたが、意味を取り逃がした、
意味に近づければ、わたしたちは、その経験を
わたしたちが幸福に与えるどんな意味をも超えた形で
取り戻せるのに。まえにも言ったことだが、
意味の中に甦った過去の経験は
一人の生涯の経験にとどまらず
幾つもの世代の経験でもある。それは、
たぶん言葉では言い表せぬものを記憶している *
「経験は手に入れたが、意味を取り逃がした」
というのは
なかなかうまく言っているが
現代の問題は
チープな紋切り型の「意味」に
あらゆる経験を落とし込んで足れり
と誰もがやってしまっているところにあり
むしろ
「意味を取り逃が」すことのほうに
生の可能性は掛っていた
ドゥルーズの
「人生という名の生きそこない」
という言葉が
思い出されてくる
ドゥルーズに流され過ぎないように
『四つの四重奏』の
「リトル・ギディング」も
思い出しておこうか
われらが初めと呼ぶものはしばしば終わりであり、
終えるということは始めるということ。
終わりとはわれらの歩み出るところ。すべての句と文は
もし正しいものならば(一語一語がその所におさまり、
互いに仲間を支える役目を果たし、
それぞれ含羞みもせず、見栄も張らず、
古いものと新しいものが自然に交わり、
話し言葉は適切で卑俗に陥らず、
書き言葉は厳正でしかも衒いなく、
みんなで手を携えて舞踏する全き同輩)————
すべての句と文は、その一つ一つが終わりでありまた初め、
すべての詩は墓碑銘。そして、すべての行為は
断頭台への、火への、海の喉への、あるいは
誰のものとも判らぬ墓石へと一歩。そして、
われらは死に行く者とともに死す、
見よ、彼らは去る、そしてわれらも彼らと行く。
われらは死せる者とともに生まれる、
見よ、彼らは甦る、そしてわれらを共に連れ去る。
薔薇の時と水松の時は
同じ長さの時間。歴史のない民族は
時間から取り戻されることはない、歴史とは
無時間の一刻一刻の型なのだから。*
「すべての句と文は
もし正しいものならば」
や
「すべての句と文は、その一つ一つが終わりでありまた初め」
こそ
切実な吐露と
見える
リアルだ
「すべての詩は墓碑銘」
は
言い過ぎかも
しれない
エリオットの後に来る
ジャック・プレヴェールの
後では
ましてや
今
ぼくらは
樹木葬だの
散骨だのの時代に
いるのだ
“中東のリビエラ”にされた後の
ガザに
墓碑銘は残るのか
とも
思いは引き延ばしていかないと
いけない
*岩崎宗治訳