どんなに読もうとも
所詮
本は外部であり
他者の思考痕跡であり
わたしの一部になるわけではない
こういう批判には
なるほどと思わせられるし
わたしも
議論の種類によっては
道具として
この視点を採用したりする
けれども
かといって
いわゆる「わたし自身の思考」
といったような
夢見がちというか
夢想主義的オプティミズムとでもいうか
頼れるようなそんなものが
あるわけもないのは
ちょっと年齢を重ねてくれば
容易にわかってくる
そもそも
言語や記号を使用している時点で
根本から他者依存なのであり
だれにも読めず
だれともコミュニケーションできない
独自言語を作り上げてからでないと
「わたし自身の思考」の
ごくごく基礎的な足場でさえ
築かれようはない
だからさ
ものを考えるとか
ものを書くとか
よく見るとか
吟味するとか
そんなことをうそぶくあなたがたの
やることなすこと
ぜんぶ
無意味なんだってばさ
いい加減気づけよ
言葉
文字
論理
思念
それらは
どこまでも
いい加減に
適当に
そのつど機転をきかせて
まさに
神業的に
あやうく用い続けるほかは
ないんだって
いい加減気づけよ
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