2025年7月30日水曜日

ちがいといえば、せいぜい


 

 

 

日本では『万華鏡』と訳されて

創元SF文庫に収められている

レイ・ブラッドベリRay Bradbury

自選名短編集The Vintage Bradbury(Vintage,1965)には

ギルバード・ハイエットによる序文があって

これが

なかなか

示唆に富んでいる

事実をみごとに語っている

とも言える

 

  小説を書くうえでもっとも達成しがたいことのひとつが、個性を出すことだ。毎年、何百という長編小説、何千という短編小説が生みだされる。だが、その大部分は似たり寄ったりで、ちがいといえば、せいぜい舞台となる場所や、プロットのもっともらしさや、性的でサディスティックなエピソードの残酷さの度合いくらい。文体、知性、人生の解釈がきわめて強烈で、またぬきん出ているために、感受性の豊かな読者ならたちどころにそれと認め、いったん認めたらけっして忘れないような作品を書く作家はめったにいない。この事実は、本人もきわめて独創的な作家であるトルーマン・カポーティが、つぎのような対照法を用いてみごとにいい表わしている。近ごろ評判のある長編小説をさして、彼はこういったとされるのだー「あんなのは書いてるんじゃない。タイプライターを叩いているだけだ」。 (中村融訳)

 

カポーティーが

どの小説を指して

「あんなのは書いてるんじゃない。

タイプライターを叩いているだけだ」

と言ったのかわからないが

今も昔も

市場に出まわる小説には

「その大部分は似たり寄ったりで、

ちがいといえば、

せいぜい舞台となる場所や、

プロットのもっともらしさや、

性的でサディスティックなエピソードの残酷さの度合いくらい」

しかないらしいのがわかって

ギルバード・ハイエットの指摘には

妙に納得がいってしまう

 

本来

人間の言語表現の最果てとして

なにをどう書いてもいいはずの小説というものは

ほかの小説に似ても似つかない

という性質が

絶対に欠けてはいけないはずなのに

いまだに

小説らしさというものにお利口さんに嵌まっているものばかりが

続々と書かれようとしてしまう惨状にある

 

村上春樹『羊をめぐる冒険』や

井上ひさし『吉里吉里人』などが書かれた頃の一時期

蓮實重彦は小説界を滅多斬りにした『小説から遠く離れて』で

「依頼された宝探し」という同一の物語構造が

村上春樹、井上ひさし、村上龍、丸谷才一などの

代表的作家たちの小説に共通してしまっており

「権力」や「双生児」などという共通項も持っていることを指摘して

異なった作品たちどうしが必死に似通おうとしている様を暴露して

日本の小説界の中で目立たせられている目玉作品の貧困を批判したものだが

ひと目につきやすい広告が推す小説は

昔も今も

あいもかわらず……

と思わされる

 

そうした状況と比べれば

たしかに

レイ・ブラッドベリの作品には瞠目すべきものがあるが

はたして

ギルバード・ハイエットが言うほどかどうか

 

『砂漠』で変貌する以前の

怠惰な読者をかなぐり捨てた

ロートレアモン経由の初期ル・クレジオの諸作や

フェルディナン・セリーヌや

クロード・シモンや

ファン・ルルフォの至上の小説『ペドロ・パラモ』などを思い出せば

レイ・ブラッドベリなんて

まだまだ

ロリポップの類かな?

ではある

 

 




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