「イスラエル軍のキャンプに
一冊のカフカの本が落ちていることを期待したい」
と
安部公房は
『テヘランのドストイエフスキー』*
という小文に記していた
この小文自体は
1980年から始まったイラン・イラク戦争の際の
テレビ報道で
安部公房が瓦礫の中にドストイエフスキーの顔を見つけた
ということから始められている
もう何か月か前のことだ。テレビのニュースで、空襲を受けたテヘラン市街の情景を流していた。血にまみれたシャツの切れ端、つぶれた食器、サンダルの片方など……道路と建物の区別もつかなくなった瓦礫の中を、カメラがゆっくりパンしてゆく。そして一瞬、カメラが停止した。停止した画面に、一冊の本が映し出された。カメラはすぐまた横移動に戻り、本は画面の外に消えてしまった。
その本はかなりの厚さのハード・カバーで、表紙いっぱいに描かれたシルエットは、まぎれもなくドストイエフスキーの横顔である。一秒足らずのことだったが、鬚と額が目立つあの特徴的な横顔は見間違えようがない。ぼくは呆然と、しばらくその消えてしまった本の残像に目をこらしつづけていた。砂漠を泳ぐ魚に出会ったような意外さだった。一日に五回アラーに祈りをささげ、拳をふりあげて聖戦を誓うホメイニ信奉者たちのイメージから、ドストイエフスキーの読者を想像するのは難しい。意識を個別化し集団の解体をうながすドストイエフスキーの作品と、一切の例外を許容しないホメイニの教義を両立させることは、熱い氷を造る以上に困難なことである。
安部公房は
はじめて『カラマーゾフの兄弟』の第1巻を読んだ時
ちょうど
真珠湾攻撃の日だったことを思い出す
とつぜん閃光のように四十三年前の冬の記憶と結びつく。昭和十六年十二月八日、日米開戦の日だ。当時は日本も聖戦の最中だった。そしてぼくはドストイエフスキーとの出会いに夢中になっていた。図書館の全集を順に借り出し、読みあさっていた。あの日はちょうど『カラマーゾフの兄弟』の第一巻を読みおえ、二巻目と交換するために家を出る時だったと思う。新聞の一面いっぱいに、白抜きの大見出しがパール・ハーバー奇襲を告げていた。しかしぼくにとって切実なのは、『カラマーゾフの兄弟』の第二巻が、すでに誰かに借りられてしまっているのではないかという懸念だった。日米開戦のニュースのほうが、むしろ遠い世界の物語のように感じられていた。
きびしい思想統制の中で、それ以外の思想が存在することさえ教えられずに育った十七歳のぼくにとって、あの懐疑主義はたまらなく新鮮なものだった。 一切の帰属を拒否し、あらゆる儀式や約束事を踏みにじり、ひたすら破滅に疾走しつづける登場人物たちは、どんな愛国思想よりも魅力にあふれた魂の昂揚として映ったのだ。
こう書きながら
安部公房は
人間社会における儀式の問題へと入っていく
動物学者ローレンツによれば
「一つの信号に応じて
所属集団の全員にそっくりな反応をさせるためには、
反応にあらかじめ様式を与えておくのが効果的」であり
これは「つまり儀式化による定着」ということになる
安部公房は
「人間の場合でも事情は変らない」と考える
「ただ一つ人間が動物と違う点は、
刺激信号に物や出来事だけでなく、
あわせてデジタル的な記号、
つまり言語を利用できるようになった点である。
もちろん言語の獲得で人間が手にしたのは、
単に集団の行動を統制する能力だけではない。
むしろ精巧をきわめてはいるが融通のきかない動物行動の
『閉じたプログラム』の鎖を切り、
各人がばらばらに個別反応をする『開かれたプログラム』の鍵を
手にしたことだろう。
この言語という個別化の鍵によって、人間は「群れ」を構造化し、
複雑な社会化をなしとげることが出来たのである」
簡易に論を進める小文ながら
安部公房の創作の思考の秘密を露呈させている論で
現代における書かれるべき価値のある小説をつねに考えている者には
非常に参考になる重要なものであろう
「しかし同時に儀式の強化によるフィードバックで、
船の安定をはかる必要も増大する」
と安部公房は続けるが
この後
長くなり過ぎるが
今どきほとんど読まれなくなっている文章なので
ほとんどの部分を引用してしまっておこう
個別化による社会の分化が進むにつれて、儀式の数も種類も増えつづけた。冠婚葬祭から学校行事、場所にふさわしいマナーや服装、世代や所属集団を誇示するバッジや髪型、スポーツの国際試合の会場にひるがえる色とりどりの国旗と国歌の演奏、国体や高校野球の開会式での首をしめられた瀕死の猫を思わせる選手代表の宣誓の絶叫、さらに信じがたくグロテスクな各種企業の軍隊式朝礼、あきらかに憲法に違反している神棚礼拝の義務づけ……そしてそれらの上に君臨するものとしての、さまざまな国家儀式。
「儀式化」は本来「個別化」とセット販売される抱き合せ商品だったはずなのだ。だが現実にはその拘束もすでに建前にすぎなくなった。「群れ」の最終形態である国家が成熟期に達し、体重増加のために蛇や艶なみの脱皮は望んでも、サナギが蝶に変身するような真の脱皮にはむしろ拒否反応を示している現在、儀式の一方的な肥大化は当然のなりゆきと言うべきだろう。個別化は今やプラスチック製の刺身のツマにすぎない。がさつな自由意志などより、帰属願望のほうがはるかに時代にかなった美徳なのである。上は宰相の式典好みから、下はパフォーマンスとかいう若者の祭典好みにいたるまで、現実の一切が儀式で立体構成されたジグソーパズルの賑わいだ。さらにテレビ番組の類型化が疑似集団の形成に拍車をかける。小さなブラウン管の前でめいめいは孤独なまま、同時に泣いたり笑ったりの大疑似集団を体験できるのだ。過剰儀式の慢性中毒症状である。靖国神社の公式参拝、小中学校での日の丸掲揚や国歌斉唱の奨励などに対しても、憲法違反などの疑義申し立てがあるだけで、国家儀式そのものの否定という観点からの批判はほとんど見られない。やはり中毒症状の進行はかなりのものだと見なさざるを得ないようだ。
だからこそテヘランのドストイエフスキーが衝撃的な意味を持つのである。
まだ完全に希望を絶たれたわけではない。 テヘランの瓦礫のなかのドストイエフスキーを、言語のもつ自然治癒能力の徴しと見なすだけの根拠はある。
パブロフは言語を、一般条件反射よりもう一つ高い次元に属する、人間に固有な条件反射かもしれないという仮説を立てている。たぶん一般条件反射の積分値という意味だろう。その後実験的に検証されたという話は聞かないが、卓越した予見だと思う。 ぼくとしては積分値よりも「デジタル転換」という考え方のほうを採りたいが、真相はいずれ大脳生理学が解き明かしてくれるはずだ。そしてこのデジタル転換の仕組が、たぶんチョムスキーが言う遺伝子レベルに組み込まれている「普遍文法」なのだろう。この記号の記号とでも言うべき新しい情報の獲得が、人間の行動プログラムを開かれたものに変えた。だとすれば言語の能力のうち、「群れ化」をうながし「儀式化」でそれを膠着する作用よりも、「個別化」や「例外行動」を可能にした機能のほうが重視されてしかるべきではないだろうか。
たしかにある人物を「変り者」と評するとき、多少の敬意がこめられている場合もなくはない。「変り者」は容認されるべきだという認識が、生活経験のどこかで機能している証拠である。しかし「変り者」はしょせん儀式次第からのはみ出し者だ。歩調をそろえられない兵士と行進を共にするわけにはいかない。ほぼ極限にまで構造を複雑化させ、肥大化させた現代社会にとって、とりあえずは秩序の安全保障である。芋洗いを覚えた「変り者」の仔猿などよりは、泥ごと齧ってもこたえない強靭な胃袋の猿のほうが頼りになるに決っている。何より不都合なのは、国家を「群れ」の最終形態とは考えずに、さらに先の形を夢想したりする「変り者」の存在だろう。国家にとって最大の危機は、兵器による他国からの攻撃以上に、国家儀式の大伽藍を足下から崩されることなのだ。儀式の強化はつねに最優先課題になる。それにしても口裏を合せたように、儀式願望が日々の暮しにまで浸透しはじめたのは何故だろう。「変り者」いびりが義務教育の教室にまで蔓延する。事件を報道するテレビ番組は、なるべく大声を出して泣く犠牲者の家族を選んでマイクを突き付ける。いちおう世間に背を向けているはずの文芸誌や、前衛の旗をかかげる小劇場までが、古雑巾を煮立てるようなシャーマンの祈禱をこれ見よがしに歌ってみせる。
たしかに儀式が日常を葛藤から保護するための安定剤であることは否定できない。儀式を欠いた「群れ」は容易にパニックを引き起こす。暴徒を蹴散らす警官隊の威力は、かならずしも催涙ガスや放水車だけでなく、儀式の鎧に負うところが多いはずだ。過剰儀式の見本が刑務所や軍隊だとしても、たとえば聖職者は儀式による拘束生活をすすんで選ぶし、ヤクザは自らの意志で任侠道に従うのだ。荘厳に演出された儀式は、しばしば涙腺を刺激し、浄化作用を引き起こす。たとえば結婚式は、本来他人が介入する余地のない男女の性的結びつきを、儀式によって社会化する効能をもつ。葬式も、とつぜん死体という手に負えない形而下の存在に変質した人格を、人間として処理するための欠かせない儀式なのである。
ある職業魔術師が面白いことを言っていた。 子供の観客は張り合いがない。せっかく難しい空中浮遊の術を演じてみせても、それが不可能であることを経験的に熟知している大人と違い、子供は驚くべき事実にただ驚いてくれるだけだと言うのである。魔術師が求めているのは信仰ではなく、その場かぎりの疑似的な「群れ化」なのだ。儀式の有効性も似たようなものだろう。「個別化」とセット販売されている限りは、緊張緩和剤としての処方の価値も認められるが、自己目的化した儀式信仰は魔女狩りの衝動をあおるだけのことだろう。
もちろん作家が儀式信仰に走るとき、上からの儀式に対抗するための、下からの儀式という思いがあることを理解できなくはない。ぼくだってもし南ア連邦の黒人なら、対立儀式の式典を歌いあげずにはいられなかっただろう。そうした衝動をじゅうぶん了解したうえで、なおかつこだわらずにいられないのである。一つの「儀式」を否定するための、別の「儀式」の正当化を、作家の仕事として認めても差し支えないものだろうか。権力を握った革命軍が、脱皮した蟹の甲羅の下からまたそっくりな甲羅をのぞかせるように、いずれ新国家儀式の作成を開始することは目にみえている。やはり作家は異端呼ばわりを恐れず、無条件に儀式そのものに異議申し立てを続けるべきではないだろうか。それが散文精神の原則のようにも思われるのだ。具体的な目標はなくても、瀕死の言語によりそって呼吸困難の苦しみを共にする墓守り候補がいてもおかしくはない。
あらためてドストエフスキーの永遠性に脱帽しよう。ついでにイスラエル軍のキャンプに、一冊のカフカの本が落ちていることを期待したいものだ。靖国神社の閣僚公式参拝に不快感を感じるのは、単に中国から抗議されたからでも、軍国思想につながるからでもなく、それが国家儀式の露骨な上乗せ強化だからである。しかし絶望するのはまだ早い。ゴキブリか鼠なみの忍びの術で、儀式の廃虚に奥深く侵入し、巣をつくってしまった言語の墓守りの影がテレビニュースの画面を走ったのだ。どんな片隅にでも儀式嫌悪の手触りがあるかぎり、それは希望のたしかな感触なのである。
「やはり作家は異端呼ばわりを恐れず、
無条件に儀式そのものに異議申し立てを続けるべきではないだろうか」
というのは
かっこいい提言ではあるものの
やはり時代のなせるわざというべきか
安部公房はここのところは甘い
楽観的すぎる
もはや
「無条件に儀式そのものに異議申し立てを続ける」ものとしての
文学も
小説も
作家も
みな「儀式」になってしまい
なんの効力もなくなってしまっている
現代の作家はみな
「古雑巾を煮立てるような」
資本主義と自己顕示欲の「シャーマンの祈禱」を
「これ見よがしに歌ってみせる」だけである
時代の流れというものは恐ろしい
なにもかも
みんな「儀式」になっていってしまい
カフカの研究者も
ドストイエフスキーの研究者も
安部公房の研究者も
大学の先生におさまって
大学という収入先から爪弾きされないように
じぶんの専門領域の中での言説のみに熱中するようにし
ガザで起こっていることになど
もちろん言葉や思考を組織しないどころか
なるべく目も向けないように
努めているばかり
*『テヘランのドストイエフスキー』は『死に急ぐ鯨たち』(1986、新潮文庫)に収録されている。
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