2025年6月26日木曜日

即席の共同体

 

 

 

 

「集団においていちばん問題になるのは、

無能なリーダーをどのようにして排除するかということです」

精神分析研究者の岸田秀は

『日本と「日本病」について』の中で書いていた

 

いまでも

どこの集団においても

この問題は全くかわっていないが

私は「集団」を「世界」や「時代」と読み替えたり

「リーダー」を「国家」や「体制」や「習俗」や「風潮」と読み替えたりしながら

目の回るような大問題の渦の中に

自分の意識が流され続けているのを感じる

 

岸田秀が「リーダー」と呼んだものを

安部公房は「ボス」と呼んで

次のように語っていた

小林恭二にインタヴューされた際のことで

東北で起きたホテル火災が

多くの被害者を出したことをネタとして語っている*

 

 

安部 火災について、なぜあんなに被害が大きかったのか、いろいろ分析したテレビの報道特集があったんだ。ちょっとびっくりしたな。なんでも二階から避難してきた一群の連中が、その階段の下でそのまま避難をやめ、重なり合うようにして焼け死んだらしい。割に近くに非常口があるんだよ。なぜそんなことになったのか、生き延びた人の証言や何かをもとに分析してみると、二階から駆けおりて「群れ」を形成したとたん、全員ほっとしてしまったらしい。
小林 つまり集団化による緊張解除というか……即席の共同体ができちゃったわけですね。
安部 そうなんだ。でもまだ先があるんだよ。これも奇妙な話なんだけど、その集団の中から一人、とっぴな行動に出たやつがいた。「忘れ物をした」と言って、いきなり二階に駆け戻ってしまったんだ。するとなぜか、残された連中は、駆け戻った男をその場で待たざるを得ないような気分にさせられてしまったらしいんだな。もしかすると動転したその「忘れ物」男が、集団のボスに選ばれてしまったのかもしれない。
 ボスというのは、ふつう考えられているように、腕っ節の強いやつが他を制圧して獲得するものとは限らないらしいんだ。集団のなかにボスを求める内圧のようなものがあって、本人の意志とはかかわりなしに選び出してしまうことがあるらしい。もちろん集団自体に緊張緩和の作用がある。でも組織化されていない集団は不安定だよね。バラバラでいる時よりはましだけど、その安定感を持続させようと思えば、どうしても集団の行動を決定する指導者が欲しくなる。つまりボス願望の内圧だね。
 ところでその内圧が、具体的にどんな経路をたどってボス選定に辿り着くかというと、どうも集団の中で他人とは違った目立つ行動をとる者、例外的というか、なんとなく毛色の違う印象の人間をボスと認めてしまう傾向があるらしい。というのは、集団化して多少ほっとしながら誰もがひたすらサインを待ちうける心境にあるわけだろう。まさに「ゴドーを待ちながら」の心境だね。そこに例外行動をとる者がいれば、いやでもサインに見えてしまう。
小林 その場合どうだったんですか。
安部 だから、忘れ物して二階へ駆け戻った慌て者が、ボスにされちゃったんじゃないかな。当人はただ泡食ってただけなのに……それでボスが降りてくるまで、じっと待ちつづけて、みんなでそろって焼け死んだ。
小林 すごい話ですね(笑)。
安部 でも、なんとなく思い当る節もあるだろう。もちろん例外者のボス就任というのは、集団ルールの原則ではないだろう。たぶん混沌とした無秩序な状態でのみ起きる一回限りの現象じゃないかな。二人目の例外者は、つまりいったんボスが選ばれてしまった後は、忌むべき異端者としていびり出されてしまう。一人目の例外者は誉むべきシャーマン、二人目の例外者はただの気違い。これがたぶん秩序の原則なんじゃないかな。

 

 

安部は多くのテーマの重なり合うポイントを

フィリップ・K・ディックに負けないSF手法の名手として

非常口近くで重なりあうように焼死した複数の被災者たちに触れながら

みごとに提示している

 

偶然の「群れ」が形成された瞬間に

全員ほっとしてしまって

集団化による緊張解除が発生し

「即席の共同体」ができてしまう

 

この「即席の共同体」は

死から逃れる必要さえも忘れさせるような

とほうもなく効果的な麻痺作用で

人びとを幸福に停滞させてしまう

 

社会生活とか

人づきあいとか呼ばれるものが

ほぼ

この「即席の共同体」による麻痺作用の受容によって

地味に

しかし強力に維持されているのを周囲にみれば

安部公房の指摘は

人間という症例における発見と言ってよいほどだろう

 

「忘れ物をした」と言って

いきなり二階に駆け戻っていく男を

火災の炎が迫るなかで

「待たざるを得ないような気分にさせられて」しまう経験も

世界中の個々人が

どれだけ

させられてきたことか

 

そうして

いつのまにか

そういう「忘れ物」男が

集団のボスに選ばれてしまっていったりするのは

「集団のなかにボスを求める内圧のようなものが」あるためだとすれば

あらためて

幾重にも

「集団」に絶望しておかねばならない

という結論に

このつかの間の地上滞在者は行き着かねばならない

 

私はもちろん

「即席の共同体」として

現代世界を見ているのだし

アメリカ合衆国を見ているのだし

EUを見えているのだし

イスラエルを見ているのだし

「日本国憲法下の日本」を見ているのだし

「神国日本」も見ている

 

 


 

*安部公房 『死に急ぐ鯨たち』(新潮文庫、1986

 




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