2025年6月1日日曜日

黙ってみるのも詩だった

 


 

真に叙情的

といいたいようなものから

時代は遠く離れて

さらに

遠く遠く離れようとして

 

それでも

もし「自分の感情を述べあらわすこと」が

叙情ということの語義ならば

おしゃべりでも

ひとりごとでも

SNSのなかでも

じつは叙情の垂れ流しが

溢れかえるほどの時代になってしまっていて

 

ああ

むかしは

叙情

と呼びたいような

あわれに

味わい深い

しんみりした叙情が

あちこちに

そこここに

あった

 

もし「自分の感情を述べあらわすこと」が

叙情ということの語義ならば

むかしは

ひとびとの感情は

すこし朴訥だったり

乱暴だったり

芸がないようでも

そのまま

詩のようだった

 

「雨がまた降るようだね」

「まだ梅雨でもないのにね」

「ちょっと涼しいね」

「ええ、ちょっと」

「寒いようなら、ジャケット、かけるよ」

「ええ、ありがと。でも、大丈夫」

「おや、水滴」

「さっきの雨のね、木の葉から」

「暗いね、このあたり」

「ええ。でも、いいわ、気が休まる」

6月だね、もう」

「皐月闇と呼んで、いいのかしら」

「むかしなら今ごろだろうね」

「夏が盛りに向かっていく頃の闇ね」

「いいものだね、これも」

「いいものね」

 

湿った

まだ暑くなりすぎない頃の

夏の闇も

闇のなかでの会話も

そのまま

むかしは詩だった

 

黙ってみるのも

詩だった





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