吾が道 非なるか 曠野に来たる
陸游 『望江の道中』
叙情とか
叙情詩とかいうことは
ながいあいだ
わかり切ったつもりで済ましてきていた
俗にいえば
ロマンチックな雰囲気
という理解で
いいのではないか
などと
曖昧かつ怠惰に思ってきた
ところが
ある時のこと
なにかのついでに
フランス語のラルースの簡易な辞書で
叙情にあたる「リリスム(lyrisme)」を引いたら
「私的な感情や感動や情熱の詩的ないしは高揚した表現」
という説明がされていて
一瞬に蒙が開かれた気がした
「詩的ないしは高揚した表現」はどうでもいいとして
「私的な感情」の「表現」というところに
衝撃を受けたのである
日本語で「叙情」と言われる時
「私的な感情」というところを見落として
「感動や情熱の詩的ないしは高揚した表現」のほうに重点をおいて
この言葉を理解しようとしてしまう
もし「私的な感情」に力点を置くのなら
どこの誰にでも共通するような感情の表現では
「叙情」は成立しないということになる
他人とは共有しあえない
誰にも理解されない唯一者や独異者としての
この「私」の感情が表現される時のみ
「叙情」は成立する
つまり「叙情」は
徹底した孤独や孤立や孤絶を条件とする表象であって
多層的であれ
つかの間の擬似的なものであれ
共同体や習俗や群れや流行を背景として伴いうるものでは全くない
個人が共同体から切り離されていった近代において
大量に「抒情詩」が作られるようになったのも
やはり
故なきことではなかった
と言えるだろう
「私的な感情」を表現するのが「叙情」である
という視点は
表現されたものが
他人に理解される必要さえないことや
他人に読まれる必要さえないことさえポジティヴに引き寄せ直し
広大無辺の表現の荒野を現前させ直すことになる
わたしは長いこと
鈴木志郎康の「極私的」という言葉
というか
宣言
というか
スローガン
というか
を
思いの底に引っかけ続けてきたが
彼の言っていた「極私的」は
ひょっとしたら「叙情」の正確な翻訳だったのであり
それにもとづく宣言だったのかもしれない
「私的な感情」の優位性を再び打ち立てることは
全世界を平板化し均等化するばかりの
インターネットやSNSやグローバリズムによる精神の扁平化に対
おそらくある程度以上の抵抗を可能にしうることになろう
インターネットやSNSが
お互いに相容れない「私的な感情」ばかりで埋めつくされる様こそ
たぶん人類の精神にとっての救済の風景となるだろう
人類の救済などというものは
平板なコミュニケーションもどきが完全に破綻してしまうところに
発生しようはないのである
そしてまた
「私的な感情」の優位性の定立は
「私的な思念」や「私的な意識」にも優位を与えることになり
その場合には
たとえば汚れた灰色のコンクリート壁の中に幽閉されて
あらゆる他者との関係を絶たれた囚人の「私的な意識」にも
唯一無二の独異な価値を与え直すだろうし
数時間後に死んでいくばかりの
臨終間近の衰弱者が見る索漠とした病院の天井の汚れや
無個性でただただ白く清潔なだけの布団カバーのつまらなさなどを
途方もなく豊饒なものとして捉え直させることだろう
ドストエフスキーの『地下室の手記』の思念の価値や
ソルジェニーツィンの『収容所列島』
豊かな人間遺産として回収し直せることになろう
ダルトン・トランボの小説『ジョニーは戦場に行った』における
第一次大戦で目や鼻や口や耳や両腕や両脚を失ったジョニーの
ふつうの意味での「表現」を一切奪われ尽くした生も
おそらく無限に回収されることになるだろう
一見「叙情」とは対極にあるかのような
日本近代の短歌創作の流儀のひとつのアララギ派が
極力安易な感情表現や思念表現を排しつつ
私的生活における身辺の草花や
些細な物や
季節の微妙な変化などを歌おうとしつづけたのも
その時の自分にだけ見聞きできる物や環境のありようの独異性を尊
それらと出会えた唯一の存在者や観察者としてのおのれの
貴重この上ない特異性を尊んだ点において
「叙情」
たった一度だけではあったが
詩人の長尾高弘氏とさとう三千魚氏に導かれて
「極私的」という言葉を戦後の日本社会にぶつけた鈴木志郎康の
代々木上原の自宅を訪ね
謦咳に接しえたのは幸いだった
というのも
数十年にわたるひとりでの創作活動や
個人誌の無限の出版活動などは
20代の頃に
鈴木志郎康の発想に想を得たものだったからである
彼は「強制読者」というものを設定して
自分の書くものを勝手に相手に送りつけるという方法を開拓した
わたしも勝手に「強制読者」を設定し
数十年にわたる送りつけを行うことになり
相手方の便宜のために紙媒体からメールへと形式変更はしたものの
鈴木志郎康の発想に出会っていなかったならば
実行も継続も不可能だっただろう
送りつけたところで読まれる可能性はほとんどないのを
最初から承知し覚悟した上でのみ書かれうるものがあるということ
鈴木志郎康から伝播されたものだった
0 件のコメント:
コメントを投稿