2025年6月25日水曜日

どの草もどの木も

 

 

 

「世界的」とか

「国際的」とか

「国家的」とか

 

そう形容される「大きなこと」より

身のまわりの

手近な

小さなことのあれこれを

見よう

聞こう

触れよう

 

「大きなこと」は

ぜんぶ

誰かが選択し編集した言葉や

ほの暗い裏事情や裏意志を込めた表象

すべてが他者によるフィクション

 

そう思いながら

ちょっと用事で出て行く先々の

雑草や

塀の汚れや

道のアスファルトの亀裂を

眺め続けているのです

 

夏至もむかえて

もはや真夏!

草木たちの繁茂はすばらしく

やわらかく

力に満ちて

つやつやした

かれらの今の活気を

たっぷり見ようとするのは

もう

おもしろいこと

おもしろいこと

 

そうするうち

気づかされ直すことが

いくつもあります

 

どの草も

どの木も

どれひとつ

完全でないものはない

なにかの都合で

どこか傾いたり

ねじれたり

よれ曲がったりしていても

よく見つめなおすと

そうしたことをあわせても

ひとつひとつ

完全なのがわかります

 

園丁が注意を注ぐような

どこかの特別な花園でなくても

そこらの道のわきや

雑木林のなかや

荒れた草っぱらのなかで

どの草も

どの木も

どれひとつ

完全でないものはない

 

いろいろな宗教で

よく

円や樹形を多用した

精神と霊のかかわりを描いた図や

宇宙のシステムの図を

完全さの象徴として

信者たちに見せたりしますが

あんなものは

しょせんは

悟りに達しないワナビー(wannabe)たちの

システム学習のための絵図に過ぎない

達した人たちは教えないし

教えなくても

空間や時間の流れのなかに

草や木や水流のかたちで

完全はつねに現出しているのを知っているから

 

達しないことさえ

完全のうちのひとつだから





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