2016年10月16日日曜日

長田武雄氏の涙



あと十年もすれば死ぬだろうから
長田武雄氏は蔵書をすべて手放してしまった
書庫としていた六畳ほどの部屋ふたつと
十六畳ほどの
書庫兼図書室が空っぽになり
最高級ではなくとも頑丈な美しい木板の書棚のすべてが
久しぶりに
空気に触れた

埃を隈なく払い
水で拭き掃除をしてから
長田武雄氏は
何度か
ゆっくり
三つの部屋をまわり
水がすっかり乾いたら
ワックス掛けもしようかと考えながら
ともかくも
これで
よい
すばらしい
なにも入っていない書棚は
美しい
人生でも
何度かしかなかったほど
軽やかな気分になり
開放感を満喫した

長田武雄氏は爾後
空っぽの書庫や図書室に来るのを
以前にも況して好むようになり
明るい日中など
開けた窓から
戸外の緑や空の青を眺めるのを楽しんだ
曇った日や
雨降りの寂しげな日も
窓を開けずとも
外のひかりの移ろいや
窓ガラスの陰影の彩を見るのを
味わい深く思った

本を読むのをやめてしまったわけではない

本を買い集めるのをやめてしまったわけでもない

家の裏の暗い感じの空き地に
離れた小さな図書館を建てさせ
買い集めた本は
今度はそこに収納するようになった
奇異だったのは
壁に書棚を据えることはせず
本は壁に横に重ねて山にしていったことだった
小図書館内には
やはり三つの小部屋が造られていたが
どの部屋の壁も
すぐに本の山で見えなくなった
本の山の手前にはすぐにべつの本の山ができ
四つか五つの山が四方の壁にできた

長田武雄氏は古書店からも旺盛に買ったが
ある日
かつて自分が手放した一冊を
小図書館のいちばん奥の部屋の
壁から五つ目の本の山の上に置いたのに気づいた
ただそれだけのことだったが
「おかえり…」
長田武雄氏は本に言い
家のかつての図書室に赴いて
その本がかつて置かれていた場所の書棚の木板の上に掌を置いた

そうして
長田武雄氏は泣いた
しばらく
涙は
止まらなかった

このことを知っているのは
わたしと
ここまで読んだ
あなただけ

ここまで読んでくれて
ありがとう

あなたに
尽きることないしあわせと
充実と
喜びがあるように



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