修行僧たちよ。修行僧というものは、
大パリニッバーナ経
MAHAPARINIBBANA-SUTTANTA
いつだったか
今年の夏のとある夜のこと
歩きながらスーパーマーケットから帰ってくる時に
「生きていることはすべて夢だ」
という強い理解が来た
夢のようだ
というのではなく
「夢だ」
という確信だった
生きていること
と
記してみたが
世界であるとか
じぶんであるとか
人生であるとか
この世であるとか
他の言い方をしてもかまわない
ふつうの意識状態で感知され把握される
いわゆる
外界
というものも
それを感知し把握する側の
意識とか
自我とか
内面とか
言えそうなものも
ひっくるめて
すべてが
「夢だ」
との断言が来た
ながいこと
生きていることは夢のようだ
夢みたいなところがある
という形容に留まってきていたので
なんの迷いもなく
「生きていることはすべて夢だ」
と確信し
断言する発話者が
じぶんの内部に出現したことは
新鮮だった
日が暮れても
なおも暑い
夏の夜の道々を歩き続けながら
「生きていることはすべて夢だ」
などとは
われながら
ずいぶん思い切った断定をするようになったものだ
などと驚いてみたり
そこまで断言しなくてもいいのではないか
などと考え直そうとしてみたり
思念は縷々と続いたが
そんな思念の流れもすべて
「夢だ」
との確信がすでにあった
あちこちに立っていて
闇のなかに光っている飲料自動販売機の
それこそ
悪い夢を見てでもいるかのような
チープな
どこか白粉じみた
昔の娼婦街の覗き窓にも通じるような色あいが見えるのも
「夢だ」
と
もちろん確信された
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