2025年6月19日木曜日

卯の花

 

 

 

中東戦線は異常大ありのようだが

日本では

梅雨前線がふいに消滅して

気象予報士たちは

説明ができずにあたふたしている

 

今週末の621日には

もう夏至なので

旧暦を律儀に守って

夏はまっさかりなのだから

急に暑くなるのもあたりまえのことで

驚くにはあたらない

 

いったん桜が終わると

晩春から夏にかけての花々や祭りの盛りは

急にどんどんできてくる天ぷらや

つぎつぎ焼き上がってくる焼肉のようで

あっちこっちとまわろうとすると

忙しくてしかたがない

 

そうして

ちょっと地味に咲く花々

たとえば

卯の花などは

あれ?

咲いているのを見たっけか?

どこで見たっけか?

あの路地で?

あの林のどこかで?

などと

注意散漫このうえなく

しっかり賞美していなかったと

小さく嘆いたりする

 

卯の花といえば

もちろん

佐佐木信綱 が作詞した名曲の

「夏は来ぬ」で

印象あざやかに日本人の心には蘇るが

中世の天才歌人藤原良経の歌では

良経らしい人生ワイドショットが重ね撮しされていて

味わい深い

彼の『秋篠月清集』にあるが

どうせ読んでないだろ?

そんじょそこらのお人たちは?

などと

ちょっとマウント取りたい気もしちゃう

日本詩歌の奥の院の

よき歌である

 

おのづから心に秋もありぬべし卯の花月夜うちながめつつ

 

これについて

昭和の天才歌人塚本邦雄は

こう評した

 

白い月光の下に幻のやうに咲き続く、その月光の色の花空木、

真夏も近い卯月とはいへ、

人の心には、いつの間にか秋が忍び寄ってゐる。

人生の秋は春も夏も問わぬ。

光溢れる日にさへ翳る反面に思ひを馳せずにはゐられない。

これこそ、不世出の詩人、良経の本領の一つであつた。

放心状態を示すやうな下句の調べもゆかしく、かつ忘れがたい。

 

「人生の秋は春も夏も問わぬ。」とは

よく言い得ているが

それならば

人生の春夏は秋冬も問わぬ

とも言えよう

詩歌

というより

言表や表象というもの

さらには思念や

意識は

つかの間も停滞しない翻しの連続であり

翻しと逸脱への意志である

破壊と創造と再生を担うシヴァ神の動きを

細い線の組み合わせと短い発声の絡みあわせによって

一手に引き受ける言語表象と思念と意識には

停止と停滞と終焉があってはならない

 

良経によって見せつけられる

日本詩心の本質は

もちろん

たびたび思い出すべきものとしても

「夏は来ぬ」に纏綿と表わされた

近代日本の夏の情緒も

やはり

たびたび思い出しておくべきものだろう

 

卯の花の匂う 垣根に   

時鳥 早も来鳴きて   

忍び音もらす 

夏は来ぬ

 

五月雨の 注ぐ山田に   

早乙女が 裳裾濡らして   

玉苗植うる 

夏は来ぬ

 

橘の薫る 軒端の   

窓近く 蛍飛び交い   

おこたり諌むる 

夏は来ぬ

 

(おうち)散る 川辺の宿の   

門遠く 水鶏(くいな)声して   

夕月すずしき 

夏は来ぬ

 

五月闇 蛍飛び交い   

水鶏(くいな)鳴き 卯の花咲きて   

早苗植えわたす 

夏は来ぬ

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=qa6PvmbLyq0

 

https://www.youtube.com/watch?v=dCtbIYdIDeE

 




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