私は自分の文体の不備なところだけ修正しよう
(スタンダール『パルムの僧院』ノート)
好き勝手なことを書いて
まるでひとりでことばの砂場にいる孤独な子のように
遊んでるんだろうって
思ってる?
ぼくのパソコンは
数え切れないほどの反古でいっぱい
もう
死ぬまでのあいだ
自分が書いたものや書きかけたものだけを眺めて
手を入れて
直して
それだけでじゅうぶん時間が潰れるほど
ついさっきも
2004年9月26日04:44
そういう日付と時間の入った書きかけを見ていた
世界の情勢はもう変わり
ぼくの気持ちも変わり
宙に浮いたまま投げ出された書きかけ
完結していないけれど
完結していないってどういうことだろう
書きかけて
放っておいたぼく自身には
逆にずいぶん新鮮な印象がある
2004年9月26日
日曜日だったらしい
手帳には「Tさんよりメール。離婚手続き済み、眠く、食欲ナシと。
夕方、Kとそうめん、サラダ。
雨と低温のためか、少し疲れる。
夜、買い物に。サミット、ミネ薬局。
夕食はステーキ、サラダ、ジャガイモのオーブン焼き」
何時に起きたのか、記していない。
朝の4時頃にものを書いているぐらいだから
遅く寝たのだろう
遅く起きたのだろう
こんな書きかけなのだ―――
………
イラクでのアメリカ軍の蛮行を伝えるニュースがある
アフガニスタン侵攻の時も同じニュースがあった
アメリカ軍を攻撃していない一般人たちを誤射したとか
結婚式の最中に爆撃を加えたとか
子どもや母親たちを狙い撃ちしたとか
ぼくが見聞きしているこうしたニュースは
たぶん間違っている
アメリカ人たちのほとんどは平然と北米大陸で生活しているようだし
イチローやマツイたちはなんの気兼ねもなしに野球に集中している
彼らの活躍にニッポンのファンたちも一喜一憂していて
どう見ても
ぼくの取り越し苦労なのにちがいない
爆撃した結婚式はやはり
全世界を破壊しようとしていた極悪人たちの壮行会だったのだろう
子どもや母親に変装した残虐なテロリストもいっぱいいるにちがいない
一般人の装いだって誰でもできるのだから
誰彼かまわず殺傷しようという者たちがたくさん潜んでいるのはたしかだろう
アメリカを糾弾するニュースも写真も嘘っぱちにちがいない
だいたいニッポンの首相が太鼓判を押してアメリカを助けているのだもの
ぼくが見聞きするニュースはどれもひどく悪意に満ちたものにちがいない
間違っているにちがいないニュースをずっと見聞きし続けてきたし
間違っているにちがいないそれらにぼくはとっても関心がある
間違っているにちがいないそれらをやっぱり見聞きし続けていくと思う
悪い子どもや母親や娘たちや兄や父たちを打ち抜いたり
砲弾を撃ち込んで肉片にしたりミサイルで跡形もなくしたりできて
どのアメリカ兵たちも満足だろうと思う
どのアメリカ兵たちの子どもも母親も兄も父たちも
悪を挫くすばらしい息子や娘を持って本当に鼻高々だろうと思う
アメリカ兵たちは自ら危険を冒して極悪非道な連中の住む土地に乗り込み
悪の根をいま根こそぎにするべく努力してくれているのだろうと思う
アメリカ兵たちに殺された老若男女はみなテロリストだったのだろう
イチローもマツイもそんなアメリカ兵の家族たちを楽しませるべく
球場で精一杯のプレーを続けているのだろうと思う
ひとりの大統領やひとつの政府ならば
過ちを犯すということはあるだろうと思うが
あんなにもたくさんのアメリカ国民たちが内乱も革命も起こさずに
唯々諾々と大統領や政府にしたがっているとすれば
やっぱりイラクへの進軍は正しいことだったにちがいない
ニッポンの政府もアメリカ政府が正しいと再三表明し
ニッポン人のだれもが政府を転覆さえしないのだから
やっぱりなにもかも正しいことだったにちがいない
間違っているにちがいないニュースをぼくは見聞きし続けると思う
それだけがぼくにできることだなどとは言わない
間違っているにちがいないニュースをぼくは見聞きし続ける
行為はかならずまったく同じ質量で返ってくるのをよく知っていて
間違っているにちがいないニュースをぼくは見聞きし続ける
返っていく行為のニュースの届く時も
やはりぼくは見聞きし続けると思う
………
書きかけはここまで
アメリカに対して
当時の日本政府に対しても
皮肉な書き方をしている
たぶん
ギンズバーグやユゴーの政治詩のような方向に進めたかったのだろう
しかしいつも心の中では
マラルメ系やシュールレアリスム系
ディラン・トマス系や
ときにはフランシス・ジャム系などまでが
…ああ、もちろんディッキンスン系も
わさわさと騒いでいて
ひとつの方向に詩作が突っ走るのを阻む
これが二十一世紀の詩作だし
あらゆる書き方がぼくらの前にはいつもカタログふうに並んでいるし
器用な者なら
どれでも真似できる
真似できないようじゃ詩人ではない
しかし真似すれば詩人ではない
かといってそれらすべての系統を書き尽くしもせずに
近未来の詩人などあり得ない
こうして詩人たちはあらかじめ老いて現在に来り
老いを募らせて詩体のはざまに消えていく
政治詩など詩ではないとか
政治詩こそが詩だとか
そういう議論ではないのだ必要なのは
どんな素材でもいいから書き出して書き続けて中絶したらまた書き出す
書いているうちに詩は論文でも小説でも論評でもないから
だんだんと理屈やわかりやすさから外れ逸れて
言葉の肉が方々に露出してきて、で、そこだ、詩の瞬間は!
だから間違ってなどいない、少しも
どこから始めてもいい
どんなことを語るのでもいい
とにかく書け
内容など気にせず
書くこと
語を置いていくこと
ペンを滑らし
キーボードを叩く
これがそのまま詩ということだ、結局
2004年9月26日までの一週間
読んだ本は
藤堂志津子「プライド」
吉本ばなな「うたかた」「サンクチュアリ」
山本周五郎「柳橋物語」「むかしも今も」
中河与一「天の夕顔」
江國香織「きらきらひかる」
泉鏡花「天主物語」
見た映画は
北野武「菊次郎の夏」のみ
洗濯機排水ホースの修理をし
弦巻の実相院に
墓を買おうかと思って見学に行っている
21日火曜日には
湯島にあった詩学社で雑誌『詩学』の合評会
その後Tさんがジャガーで迎えに来て
南青山の虎萬元で御馳走を受ける
あそこの酢豚は丸い肉団子で珍しい
その後Tさんはアルコールが入ったまま
三軒茶屋までジャガーで走り
ラ・トリブータでさらにビール三昧
どんなに飲んで運転しても
一度も捕まったことがないTさんだったが
何年かのち
246でついに検問でひっかかり
ずいぶん飲んでいたというのに「飲んでません」と言ったら
そのまま難なく警官が見逃してくれたのを
ああ、これは、神さまがもう飲酒運転は止めなさいとおっしゃっている
そう考えてきっぱりと止めた
Tさんの
それが転機
25日土曜日には
妻と夜の散歩に出て
まだ元気だったエレーヌ・グルナックの家に寄り
彼女は帰っていなかったので
猫のミミとマリに餌をやっておいてやる
マリはいまでも鎌倉のフランス人の家でまるまる太って健在らしいが
ミミは数年して死に
エレーヌ・グルナックも6年後に死ぬことになる
なにもかもが
これっぽっちも終焉の気配を見せず
忙しく
きっちりと予定は詰まり
次々やらねばならないことが出てきていた
帰宅途中
妻とぼくはなぜか梅酒が飲みたくなり
ローソンで梅酒と
なぜか杏仁豆腐も買い
うちに持ち帰って食べた
その後ビデオに撮っておいた『世にも怪奇な物語(秋の特別編)』を見て
そうして起き続けたまま「イラクでの
アメリカ軍の蛮行を伝えるニュースがある」
そう書き出したらしい
梅酒については
どんなものを買ったのか
記していない
なにか混ぜ物の味がして
そんなに旨くないと
妻が言ったのを
覚えている
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