2012年3月8日木曜日

へっ込んだままの毬やボールの身で




 
    怒りを歌え、女神よ、… 
      (ホメーロス『イーリアス』)




 

2011年3月11日の
大地震と津波と原発事故、そして、なによりその後の
行政や政府の場当たり的な動きの酷さ、隠蔽、責任逃れや盥回しのありようを
自由詩のかたちでは書かないできた


そうしたことを書くのは報道言語のほうが適しているし
日記言語やブログ言語も向いている
メール言語やツイッター言語、ミクシー言語、フェイスブック言語も
記述者の意識内の臨場感にもっと近い単語配列ができる
自由詩言語はどうしたって方法的に後れを取らなければならない
いったんすべての情報も感想も断片的な無数の思いも
創作主体の意識の中に浸けこんで水洗いしなければ自由詩言語は出来てこない
できれば民族主体の深い沼にまで下りて行って長く浸けおきたくもある
自由詩言語をよく使う人にも
メール言語から報道言語に到るどの言語もいつも開かれている
銀板写真やピンホールカメラにこだわる写真家だって
災害時にはデジカメや〈写ルンです〉を持って駆けまわるだろう
いろいろな機材やメディアを適宜使えばいい
詩はいつも最後に来るのだ
小アジア一帯での戦乱が打ち続き
古代都市イーリオスも破壊されてから
しだいにトロイア戦争というかたちの伝説にまとまり
短く見ても数百年はしてから
ようやくホメーロスが吟遊を始める
マルコ福音書の成立は紀元七十年代だというし
マタイ福音書は紀元八十年代、ルカは七十から八十年代、
ヨハネは九十年代初期だともいい
福音書内の登場人物に擬して著者名が付けられる流行があった当時のこと
いずれも本当の著者はわかっていない
旧約聖書に到ってはもはや
あの地域の国家、民族、集団の数え切れない興亡から滲み出たエキスの
無数の層と階梯と回路をなす巨大な蟻塚
柿本人麻呂の歌業はかなりリアルタイムかもしれないが
あれは短歌形式という詩的〈写ルンです〉を使い
周到に検閲をかわしながらアングルを工夫した成果
目くらましの装飾過多長歌に到っては
スターリンじきじきのお越しを耐えたショスタコーヴィチさながら


あの地震の時たまたま私は東京の自宅にいて
数週間前から増えてきていた地震のひとつかと初めは思いながらも
これまでになく強く長い揺れの中で
居間の書架と五百枚収納されているCDラックを倒れないように押さえながら
ああこれはついに歴史的な地震が、と思い
住居の中で潰されるかもしれないと覚悟を決めた
強い揺れがおさまった時には住居はさいわい大丈夫で
倒れた家具もなく、食器類さえ壊れなかったが
書斎に積んであった書籍の山はすっかり崩れて踏み込めさえしない有様だった
しかしそれだけだった
しかしそれだけだった
しかし大変なことになっている場所が各地にあるはずだと
阪神淡路大震災の時のことを思いながら
テレビをつけ
インターネットをのぞいてみたが
大きな地震がありました
余震に注意してください
建物から飛び出さないでください
建物から出る時には落下物に注意してください
各地の震度は…とポツポツ流れはじめてくるだけで
もっとも酷い場所の様子はまだ
もちろん伝わってこなかったし
映像としても流れてはこなかった
ああ神戸の時ときっと同じだ
朝の五時四十六分五十二秒に起こった阪神淡路大震災の時も
しばらくは不気味な静けさがメディアを領し
神戸の崩壊は数時間しても他所の地域の住人には把握できなかった
ヘリコプターが神戸から上がるいくつかの煙を捉え
倒壊した道路やビルを捉えはじめても
神戸はずいぶんと静かなままだった
大災害の後は異常な静けさがやわらかな布団のように下りる
メディアは正確にその静けさを映し出していたのかもしれなかった
テレビもラジオもうるさいものと思い込んでいて
ましてや大地震の後はもっとうるさくなるものと思い込んでいたのが
こちらの間違いだった


日本のどこが
どの程度被害を受けたのかすぐ知りたかったが
テレビはこれといった映像もないまま
震度の数値をくり返すばかり
数値がだんだんと細かく多くなっていくのを見ながら
進んでいってはいるな
こうして進んでいくのだ
大地震という出来事が社会的に構成されて立ち上がって来つつある
平成二十三年の日本がさっきの地震にどう対処するか
これからも来続ける余震にどう応急処置を施そうとするか
これからリアルタイムで見続けることになる
そう思いながらも
いますぐに知りたいことや映像をまだ流してくれないテレビにがっかりし
しかしテレビは付けたままで
窓から外を見
どこの家も建物も道路も電信柱も木々も壊れていないのをざっと確認したり
外に出て集まって話している主婦たちを見たり
本当になにも壊れていないだろうかと
食器棚の奥をのぞいてみたり
押し入れを開けて中に首を突っ込んでみたり
そうするうち
あ、電話でもしてみようか
とようやく思い
固定電話や携帯電話で離れた家族に電話してみたり
携帯メールを送信しようとしてみたが
もうパンク状態
不通になってしまっていた


冷たいといわれるかもしれないが
こういう時には家族のことさえ心配しないたちで
無事だったらなんとか本人たちが切り抜けるだろうし
重傷を負っていたら困るが現状では助けようもないし
死んでしまっていたらもうどうしようもないし逆に心配はないのだと思った
死体の回収は大変かもしれないが
三月だからすぐにはひどくは腐らないだろう
とりあえず今ここにいる自分としてはまず自分のまわりのことをし
自分が死体にならないように動かねばならないのだと思い
余震でまだ揺れがくり返されるなか
たったひとりでずいぶんと平静な気分ではあった
日常の些細なことは気になるのに
いったん死が関わってくると一気に落ち着いてしまう
死んだか死んでいないのか
助け得るのかダメなのか
いずれの場合も慌ててもしょうがない
助けねばならない時や
助け得る時なら
いよいよ落ち着いてかからねばならないものだし


崩れた多量の書籍をどうしたものか
ちゃんと積み直してもまた大きな余震で崩れるだろうし
少し足の踏みこめる場所はつくりながら
崩れたままにしておくほうがまだいいのではないかと考えるうち
つけておいたテレビのおかげで
そう、見ることになったのだ、あれを
しばらくのあいだリアルタイムで
あれら大津波の映像
ヘリコプターから鳥瞰した
静かな
確実な
計画的な治水作業の一部のような
どこまでも
どこまでも
陸に上がり込んでくる
あれら大津波


ああああああああああああああああ……
と心のなかで言い続け
ひとりだというのに
時には声にも出して言ったような気がするが
どうするも
こうするも
東京の自宅にいて崩れた本の始末にも迷っている者としては
いま東北の沿岸を洗っている大津波の映像を
テレビで見ている他には方途がない
なにができるだろうとか
なにをすべきかとか
そんなことはあの厖大な水が引いてから頭がぽつぽつ考え付きはじめることで
映像どおりに津波が陸に上がり込んでいる最中は
ただ受け手でいるしかない
個人のレベルで調節できるのは
いっそう全身全霊で受け手になることぐらい


どれくらい見続けただろう
テレビがやがて
同じ映像をくり返し流すようになってから
これでともかくも地震と津波の第一段階は終わり
被害状況把握や救助や消火作業や遺体収容やと
これから大変なことになっていくと見えた頃になって一旦テレビを消し
九段会館でも内部で崩落があって死傷者が出たそうだが
うちの周辺はどうなっているだろうと
これははっきりと興味本位から
歴史的な規模だったはずの震災の後の東京の一端を見て回っておこうとの思いから
自転車に乗ってこぎ出たのだった


これが
311と呼ばれるようになったあの大地震、大津波、原発事故の
今後も何十年も尾を引くだろう一連の大事件との個人的な関わりの発端で
夜遅くには会社から5時間も歩いて家人が帰宅したが
いわゆる帰宅困難者になった同僚を伴って来たので居間のソファをベッドにし
揺れがたびたび来る夜をみんなで半睡で過ごして朝を迎えたものだった
それからは
東京は東京でいろいろなことがあり
米や牛乳やミネラルウォーターがなくなったり
意外とコンビニの弁当は切れなかったり
節電のためとかで駅も店も電灯の点灯を減らしネオンも消え
放射能は東京にもひどく流れてきているとツイッターの人びとが報じる一方
枝野幸男官房長官は福島の放射値についてさえ
「直ちに人体に影響を与える値ではない」と言い続け
鎮静化のみに努める御用学者たちは福島原発が危険な状態ではないと言い続け
原子力安全委員会委員長の斑目春樹はのらくらと安全だと言い続け
日本原子力技術協会前理事長・当時最高顧問の石川迪夫も危険論をせせら笑っていたが
あの山下俊一、
当時、長崎大学大学院教授医歯薬学総合研究科付属原爆後障害医療研究施設教授で
世界保健機構WHO緊急被曝医療協力研究センター長
日本甲状腺学会理事長
3月20日から福島県知事要請で放射線健康リスク管理アドバイザーとなった
山下俊一に到っては放射能は「全く心配無い」と講演
食品経由の放射性摂取は警戒すべきだが、マスク不要、子どもの外遊びOK
セシウム摂取も大丈夫とすさまじい太鼓判
海外の研究機関や政府のほか
京大助教の小出裕章や広瀬隆や上杉隆たちがネット上で危険を叫び続けても
テレビを筆頭に大新聞は大丈夫の合唱で
その上オウム事件のショーコー賛歌以来のACの「ぽぽぽぽ~ん」に洗耳され続け
日本人は大きく二派に分かれ
ネット情報積極収集派とマスコミ情報鵜呑み派とに
ポキンと国は折れんばかりだった
そういうなか
太郎の上に放射能降り積み
次郎の上に放射能降り積み
身捨つるほどの祖国はありやと
誰もが思いかねない状況が
進み続けていった


帰宅困難者となった家人の同僚が来た時
毛布が足りないので抱えてくるべく出向いた先は
家から10分ほどの公団に借りていた外国人の亡友の住まい
一年半の闘病ののちガンで前年の秋に死んだのだったが
治療や看病の世話にひき続き
死後のすべてを私はたったひとりで背負い続けていた
自分の仕事と生活と並行して
葬儀、支払い、税務、諸届、四十九日と済していったが
残された家財や書籍の厖大な山はどうにも容易には処理し切れず
安くはない家賃を月々こちらの負担で払い続けながら
少し時間ができるとその住居に出かけては整理や箱詰めを進め
東に箪笥がほしい人あればどうぞ持って行ってくださいといい
西にバザーがあれば衣類からDVDプレーヤーから持って行って捨て値で売り
南に専門書がほしい人あれば何冊でもどうぞと家に呼び
北に白物家電のほしい人あれば運送業者を呼んで送ってやり
酷暑の夏は汗を流し
寒さの冬は手をかじかませ
ぜんぶ回収業者に任せろデクノボーとも呼ばれ
褒められもせず
苦はひとりだけで負い
そういう者になるつもりもなかったのに
311の当日にもまだまだなにも終わってはいない状態だった
ちょうど前日10日に
たくさんの医療費領収書などを計算し終えて亡友の確定申告を提出し
わずかに晴れ晴れした気になったのも
思えば偶然とは言えないなにかがあるようだが
それでも亡友の住居に行けば段ボールや書籍や処分用品の山
311前にひとりだけ2DKいっぱいの分量の親愛なる瓦礫たちを抱え
どうにか生きてきた5か月ほどであったなあとつくづく思った
亡友の親族は病気治療の手伝いにも様子見にも来ず
葬儀にも来ず四十九日にも来ず
葬儀代からその後10か月借り続けた住居の家賃折半にも応じず
なんの義務もないと突っぱねてくるばかりで
ただ遺骨だけ返せと
在東京領事を通じて圧力をかけてきた
それに反対するつもりはなかったが
自分たちは遺骨さえ引きとりには来ず
やれ飛行機が怖いだの
持病があるので長旅は無理だの
けっきょく領事みずからが持って行ってくれることになったが
6月のある晴れた日
遺骨を寺で渡す際には
まったく、わが国の恥のような家族です
日本では治療も葬儀もこんなによくお友だちたちにしてもらったのに…
そう領事は言い
いちおうの落着とはなったのだった
遺骨を返すに際しても
日本の他の友人たちや知り合いたちもうるさかった
長く日本にいたのだから
日本にお墓を作って埋葬すべきだ
これこれをすべきだ
あれもすべきだ
そう言うわりにはなにもせず
費用負担の申し出もせず
言いたいだけ言い続けていた
そういえばろくな手伝いもせず看病にも来ずに
死後になって住居にやってきて
価値のある物品だけサッと持って行った
見事な旧友さんもいたっけ


こんな中に降って湧いた311は
まるで自分以外にまで瓦礫が一挙に拡大したかのようで
亡友のとり散らかった住居に行くと
東北の沿岸地域と地続きになっているようだった
いくらも使える家財や家電をなんとか被災地に送ろうと努めたが
物を必要としている人たちのところまで物流が行かないという話だったし
行政でも集まる物品の整理に往生していて
しばらく送るのをストップしてほしいという話
けっきょく回収業者に引き取ってもらったり
粗大ゴミに出したりする他なかった


2011年3月11日の
大地震と津波と原発事故、そして、なによりその後の
行政や政府の場当たり的な動きの酷さ、隠蔽、責任逃れや盥回しのありようを
自由詩のかたちでは書かないできた
書けないできた
書く暇などなかったし
私は私ひとりに五か月前に起きていた人生災害の後始末に
たったひとりでかかり切りだった
亡友の闘病に費やした歳月も合わせれば
2年はまるまる自分の人生がなかった
今でもすべて終わったわけではなく
歪ませられたままの時間や生活のかたちは
まだ元に戻ってなどいない
へっ込んだままの毬やボールをよく思い浮かべるのだ
そういう毬やボールの身で
311の被災地や被災者たちや
今の
これからの
日本のありようというものを望見している


自分のことでもないのに
わが身に振り掛かってきて
誰もなにも助けてくれないということが
どういうことか
身に沁みて
それはよく知っている
そういうところから
311のいろいろを見ているし
見続けていく
見るだけしかしないというわけではないし
見るだけと決めてもいないが
見ることだけはやめない

見続けていく

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