2012年6月23日土曜日

妻の死んだ後、ひどく悲しんで作った長歌二首と短歌 [柿本人麻呂の歌の翻案]

[柿本朝臣人麻呂「妻死にし後に泣血哀慟して作る歌」の翻案
      万葉集巻第二、挽歌、207番から212番の歌]





軽の市
いとしいあの娘がいるところ
通っていって
何度でも
会いたかったが
たびたび行けば
人目にはつくし
知られるし
やがては会おうと
未来を頼み
岩囲いされた淵さながら
ひっそり秘めて
恋うていたのに――

渡る陽の
暮れゆくように
照る月の
雲隠れするように
沖の藻の
ように靡いて
親しくも
纏わりついた
あの娘
もみじ葉の落ちゆくように
逝ったよと
使いの者が言うのだよ

言葉も出ず
動きもならず
知らせにも
納得もいかず
わが恋の千の一つも
慰めようと
走り出て行く
軽の市
あの娘がいつも
外に出て
立っていた市
そこに立ち
耳を澄ませば
畝傍山に
啼く鳥の声も
あの娘の声も
ともに聞こえず
道を行く
人ひとりさえ
あの娘には
似ても似つかず
しかたなく
名を呼んで
あの娘を呼んで
いつまでも
袖を振り振りし続けた


短歌二首

秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも
(秋山の黄葉の茂みに惑い行ってしまったあの娘、探したいけれど、ああ、その山の道がわからない)

黄葉の散りゆくなへに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ
(黄葉の散る頃、よその人へ愛の使いを届ける者が通っていくのを見ると思い出すのだ、会っていたあの頃を)





いつまでも
世にあるものと疑わず
あの娘が
この世にあった頃
ふたりして
とりかざし見た
槻の木は
突き出た池の堤にあって
あちこちの
枝には春の葉が茂り
その茂るさまさながらに
ふかく思った
大事な娘
ずいぶんと
頼りにもしていた娘

世の中の
むなしさ
無常のさだめには
しかし背けず
陽炎の
燃えたつ荒野に
純白の領巾(ひれ)に被われ
鳥のように
朝はやく発ち
夕暮れの
入り日さながら
隠れ去り

形見に残る幼子が
慕って泣けば
与えてやれる
ものさえもなく
男というに
子を抱え
かつてふたり寝た
離れ屋に
昼はうつうつ寂しんで
夜は嘆息しつつ明かし
歎きつづけ
しかたもなしに
慕っても
逢えるわけでもないものを

大鳥の羽の
合わさるように見える
山にあの娘がいるのだと
人に言われて
岩よじ登り
難儀を忍んで来てみたが
生きていた
あの娘の姿かたちなど
ほのかにも見えず
このように
歌うほかなき
わが思い


短歌二首

去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせども(あひ)見し妹はいや(とし)(さか)
(去年見た秋の月はあいかわらず照っているが、これをいっしょに見ていたあの娘は年々離れていってしまう…)

(ふすま)()引手(ひきで)の山に妹を置きて山道(やまぢ)を行けば生けりともなし
[天理市南の]衾田の地の引手の山に、あの娘は本当に生きているというのか?山道をたどり続けているが、そんな気配さえないではないか…)





◆短歌を伴った人麻呂の有名な長歌を、戯れに自由詩ふうの分かち書きでおおよその意味あいで訳してみたら、ずいぶん楽しかった。現代の新体詩ふう、自由詩ふうのかたちが、じつは万葉集時代の長歌に、なかなか合っているではないか、と愉しい驚きがあった。

◆万葉集の長歌に現代人が接する場合、どうしても注釈本や現代語訳を介してということになるが、ほとんどの訳は、原文そのものを模した文章ふうの形態で提供されている。読めば内容はわかるが、あれでは、もともとの長歌にあったような心の動きや揺れがまったく伝わらない。それが、自由詩ふうに書いてみると、大きく変わる。作歌の際の人麻呂の心に、いくらかでも、はじめて触れえたようだった。

◆こういう翻案をしてみてよくわかるのは、人麻呂の言葉選びに、じつは、けっこう遊びがある、無駄もある、そうしながら、長歌をなんとか支えている、ということだ。万葉集の専門家からは一笑に付されるだろうか。しかし、みずから自由詩を数千も書かないで古典詩歌に接しようとする人びとを、やはり私は一笑に付す。もとより、詩歌は道楽の道である。読み書き、解釈創作は、両輪伴っていなければ、そもそもお話にならない。

◆現代に人麻呂がいたら、という仮定は無意味かもしれないが、その場合に確実なのは、まず長歌など作らなかっただろうということだ。絶対に自由詩で書いただろう。ここに文芸態度の基本がある。ソネットで書いた19世紀までの詩人の詩を、現代日本語でソネットで訳せばいいというものではない。韻を無視した自由詩か、散文詩のほうが訳の形式には適しているという場合もある。

◆むかし、奈良や飛鳥に異様に惹きつけられて旅を重ねていた頃、人麻呂が馴染んだ軽の市のあたりをさまよったことも何度かあった。このあたりが人麻呂の、と思いながら、夕闇の中で道にまよい、時代を異にしたかのような奇妙な意識状態に陥って、闇の中をさらにさまよったこともあった。誰もが感じるように、飛鳥あたりの土地には魔力がある。今回の戯れ翻案の試みから得られた人麻呂の口吻を胸に、またふたたびの、長い飛鳥の旅に出たいとも思う。

◆短歌の書き下しテキストは、伊藤博氏訳注の角川文庫版『万葉集 一』(2009)によった。長くなるため、長歌の原文は掲載しなかったが、各種の書き下しテキストを参照されたい。


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