ソクラテス、ものを書かない男。
フリードリッヒ・ニーチェ
ヘーゲルとスピノザとニーチェに
そして
マルクスに
やはり
足を絡み取られたまま
(それらを
再三
読み直そうともせずに
『現代の批判』(キルケゴール)にかまける
言説の洪水…)
わたしは
とおく霞む
憲法というお坊ちゃまの
不甲斐なさに
点眼しようとして
カール・シュミットを読んだり
フランス革命史を
繙き直したり
し続ける
みどり溢れんばかりの田野よ!
蒼空よ!
岬に立って見続けるほか
人間には為すすべもない大海の青やみどりよ!
そうして
ヘルダーリンを思い出し
サン=ジョン・ペルスや
ユゴーを思い出せば
彼らの用いた言語を味到できていないのが
痛切な悔恨となり
少なくとも
いくつかの言語を自家薬籠中のものにしていた
ボルヘスやナボコフの天才を
遠く
遠く
仰ぎ見る
現代はふたたび
ホイットマンの巨大さの要る時節
なのに
言語表現の世界は
ランボーが軽蔑して捨てた19世紀末パリ詩壇の傾向のように
ちまちま
政治詩も風刺詩も批判詩もなければ
ドービニェの戦争詩も
大きな位置を占められない
ちまちま
視野の広い知や言語の使い手たちは
ひたすら文章語に向かい
さらにはそれを自分で行使するのもやがては捨てて
次から次への読解や
さらには
どのようにまとめるともつかぬ
自分(たち)だけのための知性と理性のレベルのための
壮大な来たるべき書物のために
メモを取り続けている
詩とは学識の夢のごときもの
とは
まこと見事に
ホイジンガの残した名言だが
ワクチンによる人間の遺伝子の改変まで
平然と超富裕層によって行なわれるようになった現代
詩はいよいよ
そこに
学識の夢にしか
ない
なのに
ヘーゲルとスピノザとニーチェに
そして
マルクスに
足を絡め取られ続けもしなければ
古典語の学習や復習さえも
はじめからする気にもならない者だけが
どうやら
詩人と自称しあう
どこぞの幼稚園の園遊会の
小さな教室での
お遊戯の舞台
わたしは今朝がた
エミール・シャンブリの翻訳(GF、1965)*で
プラトンの『ソクラテスの弁明』をひさしぶりに読んでいたが
いくつかのまだるっこしい日本語訳でかつて読んだ時に
あまりにひどく
多くの魅力的な部分を見落としていたと気づき
驚愕するとともに
その回収をする機会を持てて嬉しかった
ソクラテスが
自分を糾弾する者たちの言辞と違って
選ばれた言いまわしや
賢明に並べられた用語による演説ではなく
これからアテネ市民が聞くことになるのは
言葉の技能もない
思いついたままの言葉による
演説となるだろう
と
最初に語っているのも
日本語訳ではピンと来なかったところだが
ソクラテスの“詩人”批判や“創作”批判についても
遠回りして外国語訳で見ることで
やはり
印象は生き生きと強まり直す
政治家たちに会った後
わたしは詩人たちに会いに行った
悲劇の作者たちやディオニュソス賛歌の書き手たち
さらに他のものの作者たちだ。
今度こそは
わたしは自分の知恵の劣りぐあいを
彼らの知恵の前で
突きつけられることだろうと思った。
彼らの作品について
もっともよく研究したと思われる人たちを連れて
わたしは質問に行った。
それらの作品で作者たちがなにを言いたかったのか
わたし自身も彼らのもとで学ぶために
質問してみた。
ところが!
アテネ市民諸君!
本当のことを言うのは
恥ずべきことかもしれないが
言わねばなるまい!
その場にいた研究者諸氏すべてのほうが
いや
すべてとは言わぬまでもほとんどが
詩作品を作った詩人たち自身よりもよりよく
詩作品について語ることができたようだったのだ。
これでわたしにはすぐわかったのだが
詩人たちも創作においては
自らの見識や熟考に導かれてなどまったくなく
一種の勘や
神から来るインスピレーションのようなものに
導かれているだけだ。
ちょうど占い師や預言者が
よきことをたくさん語りながらも
自分たちが語っていることの意味をわかっていないように
詩人たちの場合もだいたい同様だと
わたしには思われたのだった。
そうして
同時に気づいたのは
彼らの持つ詩作の才能のゆえに
詩作以外のすべてのことについても
詩人たちというのは
自分たちが人間の中でもっとも賢いと思い込んでいる。
まったくそんなことはないというのに。
そうこうして
彼らと別れながら
わたしは思ったものだ。
政治家たちに対するのと同様
詩人たちに対しても
わたしこそ優れているのだと。*
*Platon, Apologie de Socrate, Criton, Phédon (Traduction,notices et notes par Emile Chambry, GF Flammarion, 1965)
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