住するところなきをまづ花と知るべし
と
世阿弥は残している
「花伝第七 別紙口伝」にある
定まることがないのを
花
と心得よ
などと
受け取ってみたくなるが
「住する」は停滞することの意だというから
停滞しないことや
同じ状態のくりかえしにならないことが
なにはさておき
花の条件だ
と言う
のだろうか
それとも
そのこと自体が花だ
と言うのか
世阿弥の残した文章は
実地にあたると
世間で理解されているほどには
わたしには
わかりがよくなく
だいたいこんなことを言っているのだろう
とまではわかっても
意味の確定にまでは行き着かず
ふたつみつの意味のあいだで
迷ったままになってしまうことが多い
それを良いことに
逆に
こちらの拾いたい意味で
その時どき
受け取ってしまうこともある
それで
いいのではないか
許されるのではないか
そうも思い
こんな使用の可能になるように
世阿弥は
最後のところで
曖昧さを
多義性の種を
残したのではないか
とも思う
こう思いながら
ふりかえると
住するところなきをまづ花と知るべし
とは
このままで
つよい励ましとなる
人生観であり
価値観である
「風姿花伝第三 問答条々」には
まことの花は
咲く道理も散る道理も心のままなるべし
されば久しかるべし
とあり
これも含蓄の深い
考えさせ続けられる言葉である
年齢などの諸条件に左右されない
時分の花でない
常住不変の魅力というものは
発揮するのも
見せるのを終えたり隠したりするのも
演者の意のままになるのでなければならない
だからこそ
いつも
いつまでも不変のものなのである
こんな意味なのだろう
世阿弥のことばを
こちらで理解しようとして
彼の口ぶりにつられて
花
花
花
とばかり
言おう
とするから
わからなくなってしまうことが
ある
世阿弥は
「花伝第七 別紙口伝」で
花と面白きと珍しきと
これ三つは
同じ心なり
と言っているので
つまりは
こころ惹くもの
魅力とでもいうものとして
花
を解せばいい
というのが
即物的な
わたしの解釈だ
即物
という語も
軽んじてはいけない
即
物
であり
この場合
即
心
でもあれば
即
花
でもある
即花
だ
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