日本には
ダルマさんという人形がある
願い事があると片目を墨で塗りつぶして
それが叶うともう片方にも目を入れるという
あれだ
ダルマさん
ダルマさん
にらめっこしましょ
あっぷっぷ
という
子ども向けの歌もあって
これを歌いながら
にらめっこをして
笑ったほうが負けるという
のどかな遊びもある
禅宗の開祖である菩提達磨は
インドの生まれだというが
これほど俗に親しまれているので
禅に関心を持つのでないかぎり
逆に日本では
これ以上に興味を持たれることが少ない
その達磨が
北朝仏教文化の中心地の洛陽へ来て
永寧寺の華麗な建物を見た際の感想を
自著『洛陽伽藍記』巻一にこのように書き残している
150歳になるまで
諸国を歴遊し
行かなかった場所はないぐらいだが
この寺のように精妙華麗な寺はインドにもなく
どこにもないのではないか
永寧寺は魏の熙平元年(512年)に建立され
11年後の大風で破壊されたので
達磨が永寧寺に賛嘆したのは
この11年間のうちのいつかということになる
没年は不明だそうだが
天平年間(534年から537年)以前に
落陽で没したといわれる
それにしても
150歳になるまで諸国を歴遊し云々
というのには驚かされる
北面の武士だった西行も頑健な体躯と伝えられるが
達磨の長寿にはかなわないだろう
150歳というのはなにかの間違いではないか?
とも思われないでもないが
第二禅祖となった弟子の慧可も
107歳で隋の開皇13年(593年)に没している
達磨にも慧可にも
長寿の秘訣があったのかもしれない
達磨は毒殺されたという説がある
当時の仏教者たちは
経典の講学や研究をするばかりで
実践的な修行を行わなかった
そこへ大乗壁観の達磨が乗り込んできたのだから
胡散臭い新興宗教として
誹謗中傷や反対運動が巻き起こった
達磨は何度も危機を脱したようだが
150歳にしてついに
毒殺を免れ得なかったとしても
さすがに150歳ともなれば
思い残すことはなかっただろう
そもそも昔から
悟り切った境地にあったはずでもある
達磨の弟子になるために
みずから臂を切り落としたと伝えられ
雪中断臂で有名な弟子の慧可も
達磨の没後は苦労と迫害の連続だった
慧可の説法は魔語と言われ
有名な道恒禅師による暗殺未遂も行われる
慧可は約40年ほど流離窮乏の生活を送ったとされ
ここにさらに北周武帝によって
大廃仏と呼ばれる仏教弾圧も加わり
それはさらに北斉の破仏にも繋がっていき
晩年に至るまで流離と迫害の生活は続いた
山に隠棲していたところへ
三世禅祖となる僧璨が6年間師事し
達磨より継いだ法を伝えると
慧可は破仏の収まった鄴都に帰ったが
そこで十年後に毒殺されたという
慧可は若くして儒学を学び
荘子や老子にもよく通じていた
達磨に師事したのは40歳を越えてからであり
昼夜9年付きっきりで仕えたという
わたしは仏教者ではないが
達磨も慧可も
存在と非在や
時間や無時間や
生や宇宙についての
激しい追究に突き動かされた人たちであったのは
よくわかるし
共鳴させられる
生前の彼らが
世間からは
正しい仏教徒とも見られていなかったところに
あらゆる安全地帯を捨てて進み続ける
真理の求道者の生の峻烈さが
露わである
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