2025年2月7日金曜日

達磨と慧可

 

 

 

日本には

ダルマさんという人形がある

願い事があると片目を墨で塗りつぶして

それが叶うともう片方にも目を入れるという

あれだ

 

ダルマさん

ダルマさん

にらめっこしましょ

あっぷっぷ

 

という

子ども向けの歌もあって

これを歌いながら

にらめっこをして

笑ったほうが負けるという

のどかな遊びもある

 

禅宗の開祖である菩提達磨は

インドの生まれだというが

これほど俗に親しまれているので

禅に関心を持つのでないかぎり

逆に日本では

これ以上に興味を持たれることが少ない

 

その達磨が

北朝仏教文化の中心地の洛陽へ来て

永寧寺の華麗な建物を見た際の感想を

自著『洛陽伽藍記』巻一にこのように書き残している


150歳になるまで

諸国を歴遊し

行かなかった場所はないぐらいだが

この寺のように精妙華麗な寺はインドにもなく

どこにもないのではないか

 

永寧寺は魏の熙平元年(512年)に建立され

11年後の大風で破壊されたので

達磨が永寧寺に賛嘆したのは

この11年間のうちのいつかということになる

 

没年は不明だそうだが

天平年間(534年から537年)以前に

落陽で没したといわれる

 

それにしても

150歳になるまで諸国を歴遊し云々

というのには驚かされる

北面の武士だった西行も頑健な体躯と伝えられるが

達磨の長寿にはかなわないだろう

150歳というのはなにかの間違いではないか?

とも思われないでもないが

第二禅祖となった弟子の慧可も

107歳で隋の開皇13年(593年)に没している

達磨にも慧可にも

長寿の秘訣があったのかもしれない

 

達磨は毒殺されたという説がある

当時の仏教者たちは

経典の講学や研究をするばかりで

実践的な修行を行わなかった

そこへ大乗壁観の達磨が乗り込んできたのだから

胡散臭い新興宗教として

誹謗中傷や反対運動が巻き起こった

達磨は何度も危機を脱したようだが

150歳にしてついに

毒殺を免れ得なかったとしても

さすがに150歳ともなれば

思い残すことはなかっただろう

そもそも昔から

悟り切った境地にあったはずでもある

 

達磨の弟子になるために

みずから臂を切り落としたと伝えられ

雪中断臂で有名な弟子の慧可も

達磨の没後は苦労と迫害の連続だった

慧可の説法は魔語と言われ

有名な道恒禅師による暗殺未遂も行われる

慧可は約40年ほど流離窮乏の生活を送ったとされ

ここにさらに北周武帝によって

大廃仏と呼ばれる仏教弾圧も加わり

それはさらに北斉の破仏にも繋がっていき

晩年に至るまで流離と迫害の生活は続いた

山に隠棲していたところへ

三世禅祖となる僧璨が6年間師事し

達磨より継いだ法を伝えると

慧可は破仏の収まった鄴都に帰ったが

そこで十年後に毒殺されたという

 

慧可は若くして儒学を学び

荘子や老子にもよく通じていた

達磨に師事したのは40歳を越えてからであり

昼夜9年付きっきりで仕えたという

 

わたしは仏教者ではないが

達磨も慧可も

存在と非在や

時間や無時間や

生や宇宙についての

激しい追究に突き動かされた人たちであったのは

よくわかるし

共鳴させられる

生前の彼らが

世間からは

正しい仏教徒とも見られていなかったところに

あらゆる安全地帯を捨てて進み続ける

真理の求道者の生の峻烈さが

露わである

 





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