2012年4月5日木曜日

春風、春風、わが身のうちを







春風、春風、わが身のうちを
抜けない不思議…


遠い記憶の部屋の
たぶん東側のドアをあけて、見えない廊下に落とした
透明の軽い鉛筆を拾いに行こう

…学校では、ピンと手をあげて…

(もうずいぶん歳を取ってきたのに、まだ覚えてるの、学校…)

ほんとは西の好きな子だったね、島野君…

(澱んだ川に落ちて死んだ子、死んだ子…)

島野君、島野君、島野君、…

お葬式には半ズボンで行きました。島野君、…
きみはいなかったんだ、死んじゃったから。ぼくら、
みんな、きみがいない、きみのお葬式に並んだ。

蛙がいっぱいいる田んぼのわきを通って、…
ざんざん大降りの雨の後、水面をひょろひょろ泳ぐ蛇…
遠雷、…、うぐいすは、もうどこかへ行っちゃって、…

ほんとうはどのように生きていこうかと迷っていた。子どもの
ぼくはいつまで子どもなのか、長い長い時間を、
退屈な1時間目から6時間目までのように、…トンボ!

いいなあ、空を飛ぶやつは。
飛べる生き物はいいなあ。猫だって飛ぶ。ひょいと、塀の上に。
ペンペン草、毟っては捨て、毟っては捨て、…



春風、春風、わが身のうちを
抜けない不思議…


あれほどものを考えないで生きていたなんて…
ドジョウ、いっぱい取っているうちに夕暮れて、疲れて帰る。
春はいつもそんなふう。ザリガニも、フナも、ね、…

島野君、…
…ほんとは、よく、顔も覚えてないんだ、…
下の名前も覚えていない、…
思い出そうとして、少しぼくは立ち止まる。
大人になった、ぼく。
大人にならなかった、島野君。その顔を。その名を。
エクセルシオール・カフェがあるので、ちょっと寄るかな。
いちばんふつうのコーヒーを買い、座って、「島野君」する。
ここにも、ドアが開くたび、春風。


春風、春風、わが身のうちを
抜けない不思議…


思い出さない。
他のことは鮮やかに覚えているのに。
名もなく、顔もない、島野君…
するどい葉の雑草が生い茂っている川の土手、斜面、あそこを
だれも見ていない時に島野君は転がり落ちて水の中に…
でも本当だろうか、島野君はけっこう泳げたのに。
事故の後、島野君が川で泳いでいるのを見た人が何人もいる。
鼻から上だけ出して、夕方に土手の上を行く人を見ている、
そんな話も。
島野君ではないかな?
河童かな?
死んだのは河童かな?
河童の居場所を奪って、島野君、やがて、海に泳いで行ったかな?


春風、春風、わが身のうちを
抜けない不思議…


コーヒーに
ときどき飽きる時がある。
タンポポが触りたくなって、ぼくは耳たぶに指を持っていく。
タンポポじゃないけど。
なにか、冷たい茎に触りたい。
…そうか、だから耳たぶ、なのかな、…

なにか、冷たい茎に触りたい。
まだ生きている、ぼく。
生きているような。
生きているんだろうな。

どこまで行くんだろう。


春風、春風、わが身のうちを
抜けない不思議…


カフェの窓ガラス、
天井、
壁のポスター、
お客さんのおじさん、おねえさん、
店員さんのエプロンも、
なぜか懐かしいような時があって、ぐるり、見まわしてしまう。
島野君かもしれないな、ぼくは。
あれ以来、ずっと島野君がぼくを生きてきて、
ぼくはずっと川の水面にいるのかも…
水面をひょろひょろ泳ぐ蛇…
ざんざん大降りの雨の後…

遠雷、…

帰らなきゃ、
蛙がいっぱいいる田んぼのわきを通って、…
ぼくのところへ…

(東側のドアをあけて、見えない廊下に落とした
透明の軽い鉛筆は、どうするの?…)

…どうするの?

…どうするのかなあ、…


春風、春風、わが身のうちを
抜けない不思議…


(ああ、暗いものがまったくない、
今日の心境だ…)


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