(承前)
「おばあちゃん、ちょっとごめんなさいね。 お姉ちゃんの写真を見せてあげようと思って 」
こちらを向いたお祖母さんに会釈をしてわたくしが入る間に、 彩さんはもう、 仏壇の奥から手のひらほどの写真立てを取り出して、
「これが姉です」
そう言って、見せてくれました。
わたくしが、その時、どのような声で、また、 どのような表情で妻の名を呟いたのか、 自分ではまったくわかりません。彩さんから見せられた写真は、 生き写しなどという言い方では足りないほどに妻に酷似していて、 ほんとうに深くまで相手を知り尽くしている者だけが認めうる、 その人物にしかない表情の特色までが、 はっきりと見て取れたのでした。
「あら、姉の名をご存知でしたの? …あゝ、兄が少しお話ししたんですね」
わたくしはうなずくだけで、なにも言えませんでした。
妻はここにいたのだ。山あいの村の、 せせらぎの聞こえる静かなこの家にいたのだ。 結婚して間もない頃から彼女がうわごとで言っていたのは、 ここのことだったのだ。本当だったのだ…
こんなことが思われ、 急にすべてが理解できたような気になりました。
もちろん、 誰かによく似た人物というのは本当にいるものですから、 写真の顔はたしかに彩さんのお姉さんの顔で、 妻とはなんの関わりもないのかもしれません。本当に、 よく似ているというだけなのかもしれません。けれども、 わたくしには、たとえ、 彩さんのお姉さんと妻とがなんの関わりもない他人だったのだとし ても、たんに偶然に酷似していただけだったのだとしても、 奇妙な言い方ではありますが、やはり、ここにいて、 せせらぎの音を聞き、鳥の声を聞き、山の静けさにつつまれて、 そうして死んでいったのは、 わたくしの妻だったと思われるのでした。
他人にはまったく理解してもらえないだろうし、 わたくし自身にしても、頭では理解しづらいことでしたが、 ここには、そうしたものを超えたわたくしだけの真実があり、 この真実は、わたくしひとりが心に守っていく他ない、 というのも、今の、また、これからのわたくしを唯一支え、 わたくしがわたくしでなくなるのを堰き止めるのは、 わたくしのこの真実しかないのだから ーー、強く、そう感じられるのでした。
「おかしいわ、まるで、姉のこと、 ご存知でいらしたみたいにじっと見つめて …」
そう言われて向けたまなざしの、 いくらも離れていないところに彩さんの目が澄んだ輝きを湛えてい て、その輝きに打たれ、はっとまなざしを放った先に、 わたくしがあてがわれた先ほどのお姉さんの部屋から見たのよりも たくさんの、大ぶりな月見草の蕾が、いくつもいくつも、 鮮やかな黄色を宙に浮かせていました。
「あの月見草、ぜんぶ開くところは壮観でしょうね。見ながら、 今夜はひさしぶりにお酒を飲みたいな。ありますか、お酒?」
「ええ、一本だけですけど」
「それで十分ですよ。ね、いっしょに少し飲みましょう。 せせらぎの聞こえるところで、月見草の花を見ながらなんて、 なかなかいいものね」
「聞こえるのは、せせらぎだけじゃないんですよ。 梟の声が聞こえたりする時もありますもの」
「それはいいや。狼の遠吠えだっていいですよ」
「それはないですけれど … なんだか、なんでも来い、っていう感じですね」
「なんでも来い、か。そうですね、たしかにそんな気持ちだ。 なんでも来い、だ。…今から楽しみだな、夜が」
「そうですね、楽しみですわ」
笑みを浮かべている彩さんに、わたくしも微笑んで、
「まだ暑いかもしれませんけれど、もう出かけませんか? 木陰を選んで行けば大丈夫でしょう」
「ええ、場所によっては、ここより涼しいところもありますし…」
「じゃあ、そうしましょう。行きましょうよ。 バッグからスケッチブックを出してこなきゃ 」
そう言って行きかけるわたくしに、
「私も少し、夕飯の準備をして来ますわ。なにか、 特に召し上がりたいもの、あります?」
「いや、おまかせしますよ」
「それでは、お魚と、私の得意なもので ーーといっても、すごく簡単なんですけど、 雑ぜご飯でいいかしら?」
「ええ、お得意の料理なら、それが一番だ」
「じゃあ、そうしますわ。それなら、まだ準備しなくてもいいし …しばらく歩いて、戻ってきたらゼンマイを炊き込めて ーー」
妻が語っていてもよかったのでした。夜になったら、いや、 暮れ方にははやくも大きく開きはじめるはずの月見草を背に、 久しぶりにわたくしの前に現われた妻が、あの幸福な日々に、 また最期の頃に、何度となく口にしたうわごとを、 今度は現実の時間の流れの中の言葉として語っていてもよかったの でした。
けれども、そこに確かにいるのは彩さんで、 妻ではありませんでした。
妻でないことに、奇妙なことながら、 わたくしは非常な驚きを覚えたのです。
彩さんの目をあらためて見つめると、 澄んだ瞳の中のすぐそこには、妻のものでもなく、 先ほどのお姉さんの写真のそれでもない、 まったく別の輝きがあるのがはっきりわかりました。
「それはいい、それはいい …」
言いながら、絵の作風がはげしく変質していく瞬間の、 恍惚となるような心の怒濤に、すっかり、 呑み込まれていくところでした。
(終)
*『せせらぎ』は、個人誌「ヌーヴォー・フリッソン」第8号( 1991年7月2日発行)に初出。その後、改訂版を「水路」 2号(2005年6月30日「水路」編集会発行: 大林律子編集代表)に発表。その後、さらに改訂。人から聞かされ た実話をもとにしている。まったく同じ病気に罹り、 同じように亡くなることになった友エレーヌ・セシル・ グルナックはこの話を好み、よく話題にし合ったのを思い出す。
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