複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
[1982年作]
(第二十五声) 6
(承前)
玄関まで導いてくると、看護師はわたしをそこに置いて、廊下を少 し戻り、ある部屋に入っていった。外に踏み出さずに、玄関の脇に 凭れて、看護師が入って行った部屋のほうを見ながら、わたしは待 った。しばらくすると、彼女は、見た目にやわらかそうな白い布に 包まれたものを抱いて、部屋から出てきた。
わたしのところへ来ると、
「ほうら。すっかり元気になったわ。今眠っているけれど」
と、これまでになく打ち解けた言葉づかいで言って、こぼれるよう な笑顔を浮かべながら、それをわたしに示した。
シルヴィだった。
確かにそれは嬰児で、まさしく嬰児らしい顔をしてもいたが、しか し、同時にそこには、はっきりと、わたしの知っているあのシルヴ ィの顔立ちが見てとれた。
「これが赤ちゃんだと言えますか?小さいけれども、これは、わた しの目にはまさしく成長したシルヴィそのものです。娘ざかりのシ ルヴィそのものですよ」
そう言いながら、わたしはこの顔に眺め入った。
看護師もまた、首を深く傾けて同じ対象に見入りながら、
「これは赤ちゃんの顔ですわ。あなたはあまり赤ちゃんをご存じな いようね」
と言って、一時、その眼差しでわたしの瞳を抉った。わたしは外の ほうへゆっくりと向き直り、入口近くの柱に手を掛けながら、
「いや、あなたがシルヴィを知らないだけのことですよ」
と言って、
「さてと、外へ出てみようかな」
と逃れた。
看護師と話している間に、いつの間にか、かなり外の光にも目が慣 れてきていたようで、玄関から踏み出した時には、 それほど眩しくも感じなかったが、それでも少しの間は、 軽く目を細めていなければならなかった。だが、それは、 光そのものの眩しさのためばかりでなく、風景のせいもあったに違 いない。玄関から出たわたしの目に飛び込んできたものは、まず、 無数の白い墓標であり、その向こうに広がる若い明るい緑の草原で あり、さらには、遠く地平線のあたりに起伏を作っている深い森で あり、また、飽和を超えて大空のどこかから雫となって滴り落ちる かと危ぶまれるほどに深く濃い、空の青の輝きだった。
墓標の群れの白さを、わたしの目はおそらく光と取り違えて、感覚 に眩しさを思わせたのに違いなかった。目や感覚がこの風景に馴染 んでくるに従って、わたしは、はじめの印象や、さっき病室の窓か ら見た印象でつくり上げていた今日という日についての思い込みを 、正さざるを得なくなった。
外の様子に馴染んでみると、眩しさというものがじつは全くない、 と感じられた。青く輝いていると思われた空は、実際には、青とい うよりは紫から濃紺に近い色で、しかも、到るところで色調に斑が 見られた。輝きは、確かにそこにはあったが、 めくるめくほどのものではなく、むしろ、 奥行きのある幾層も深く入ったところからの重い輝きで、感覚的な 眩しさとは関わりのないもののようだった。病室で窓から眺めた時 には、さぞ鮮やかな太陽が天心を領していることだろうと思われた のだが、太陽の姿はどこにも見られなかった。地上の光を支配する 空がこういう状態である以上、大きな白い墓地も、緑原も、森も、 真夏の日中のようにつややかに息づいて見えるということはなかっ たが、しかし、今、それらはわたしの目に、夜陰に自らの光で浮か び上がる幽霊のような生々しさで、各自のかたちや色を生きている ように見えた。墓は漆喰さながらに白く、草原は緑、森は黒、ある いは深い緑色を帯びて横たわっていた。けっして夜ではなかった。 空には雲ひとつなかった。全体の印象としては、明るい日中よりや や明度の落ちた大気が風景の中を漂っていると感じられる程度で、 強いてこの時間に呼び名を付けるとすれば、黎明とか朝まだきとい う言葉が、感覚を宥めるには最もよい言葉だっただろう。だが、東 の空が明らんでいるわけでもなく、太陽がどこかに浮いているわけ でもないので、その呼び方はあくまで一時のごまかしに過ぎないの だった。空も大地も明るく、暗く、輝いており、浮き出てもおり、 吸い込まれるような静かな闇がすべてを領しており、また、光があ らゆるところに満ち満ちてもいた。
「今日は本当にいい天気です」
と看護師が言ったので、わたしは、
「まだ太陽が出ていないようですね。夜明け前ですか?それにして は明るいが……」
と言ってみた。看護師は頷きもせず、なんらかの心持ちを顔に表わ すこともせずに、
「長い間、太陽は出ていません」
と、さっきの打ち解けた様子とは、また、がらりと変わって、いく らか厳かな調子で語った。
彼女はわたしよりも玄関に近いところにシルヴィを抱いて立ってい たが、今、その彼女の顔を見た折りに、わたしの目は、その彼女の 後ろの玄関をも捉えた。看護師の言うところを信じれば、もう数日 も前のことになるのだが、嵐の中を、シルヴィを抱えてこの医院に 駆け込んだ時のことを思い出した。そして、 あの時わたしが入った入口は、今、ここにある入口とは違っていた のに気づいた。あの時は、墓地もなにも目に入らなかったし、 もっと簡単な構えだった。そう看護師に話すと、
「ああ、それは裏口のことです。裏口からあなたはお入りになった んですわ」
と教えてくれた。
それを聞くと、なにか、すべての準備が終わったようにわたしは感 じた。なんのための準備かわからないが、とにかく、 もういいのだ、もう大丈夫だ、と思った。
粉を塗ったような大きな白い石板の墓標や、白い泥で練り上げたば かりのような四角い柱の墓標、十字架、ところどころ崩れているも の、まれに点在する黒っぽい墓石、墓の間に顔を出している鮮やか な若草などに、ひとつひとつ目を移し、 わたしの数歩先から始まって、向こうへ、あるいは右のほうへ、左 のほうへと大きく広がっているこの墓地全体へと次第に視野を広げ ながら、
「その女の人は、どこにいるんですか?」
と聞いてみた。すぐに背後から、
「あそこですよ」
という男の声が響いたので、ふり返ってみると、いつ出てきたのか 、そこには医師の姿があった。
わたしは医師に目礼をし、彼が指しているほうに目を向けた。
今までわたしが向いていた方向よりいくらか東よりのほう、という よりは、ここでの方位をよく知らないわたしが東と感じた方角寄り のところに、すでに墓地の中に深く踏み入っている、墓標のものと は印象の異なった白の軽い衣服を身につけた女性が見えた。 その女性はわたしたちには背を向けており、しかも、ゆっくりとで はあるが、どんどんと墓地の中を向こうへ深く歩み入ってゆくとこ ろだった。
わたしがせっかく外へ出てきたのに、どうして行ってしまうのだろ うと思ったが、きっと、長いこと待たされていたので気晴らしに散 策を始めたのだろうと考え直した。声を出して呼ぶのではなく、そ の人のところまで行き着いて、連れ帰ろうと思い、わたしは白い墓 地の中へ踏み込んだ。が、すぐ立ち止って、確認をするように、 看護師と医師のほうをふり向いた。看護師はあいかわらずシルヴィ を抱きかかえていて、
「そうです。あの人ですよ」
と言った。医師が顔をほころばして頷いていた。ふたりとも、わた しがあの女性のところまで到り着くことを望んでいると見えた。
向き直ってわたしは歩き出した。靴が踏み締める土は、やわらかか ったり固かったりしたが、滑ることはなく、足を取られることもな かった。
はじめのうちは、墓石にぶつかったり、囲われた墓の中に踏み込ん だりしないように注意しながら、ゆっくりと歩いたが、 慣れてくると、その女性の背を見続けながら、墓の間を縫って歩い て行けるようになった。
わたしが歩く分だけ、その女性も遠ざかり、間隔はいっこうに縮ま らなかったために、わたしは速さを少しずつ増していった。だが、 それに従って、その女性のほうも、 わたしと同じだけ速さを増して、歩き進んでいった。
じれったくなって、わたしはとうとう走り出した。すると、その女 性も、彼女も、わたしと同じように、ずっとその瞬間を待ちわびて いたかのように、ふいに走り出した。彼女の白い服に波が立ち、 翻り、長い金髪が手まねきをするように宙を踊った。
このさまを見て、これは本当だろうか、また、夢かなにかではない のかと思ったが、そういう思いも消え去らぬうちに、 あっと言う間さえなく、まるでどこかの空気の裂け目に呑まれでも したかのように、突然、彼女の姿は消え失せた。……
(第二十五声 続く)
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