2017年11月12日日曜日

『せせらぎ』(譚詩1991年作)  3


 (承前)

それにしても、なんと幸福な時期であったことでしょう。
妻とともに過したあの新婚の日々を思うと、わたくしの心にはなぜか、青の時という言葉が浮かんでくるのです。ピカソ青の時というのは、暗鬱な色調のもとに人生の悲哀を描き出した時期を言うようですが、わたくしと妻と青の時は、喩えてみるなら、数え切れない無数の真実のように白露を結ばせたピンクの薔薇の花々にふさわしい夜明けの、静謐な空の青のそれであり、あるいはまた、やわらかに草の萌えひろがる閑雅な高原でひとときボール遊びに興じた後、息を乱してハコベやシラツメクサの上に背を伸べながら見る、春の淡い暖かな空の青のそれなのです。
そうした淡い、暖かな、なによりも静謐な青い色調にくまなく浸されて、ふたりの生活のすべては、奇跡的とでもいうべき快い軽さを体現し得ていたのでした。
わたくしたちはふたりとも、手を握りあったり、離れたり、ときには互いの躰に腕をめぐらしあったりして、朝の海岸の澄んだ空気の中を駆けるのを好んだものです。幸福な若い夫婦の清潔な官能は、みずからを衝き動かしてくるものにすっかり身を任せる時には、なんと巧みに、生活の一瞬一瞬の画布に、さわやかな自画像を描出しおおせることでしょう。心と躰があれほど至純に、唯一の対象に向かって愛に燃え続けていた時期を他には思い出せません。
絶えることなくうねり来る欲望も、自分の肉の渾身の震えと、甘く、熱い、汗という妙酒とを以てするその成就も、たゞたゞ清い、すがすがしいものに思われました。性の交わりの純粋な時、それは実際、なんと水のようであることか。少しの淀みもなく、清冽に、さらさらと流れていくことか。
そればかりではありません。神経のあらゆる細管が、脳髄とともに跡形もなく裂けて消えていった刹那、その神経組織たちの亡霊が、なおも歓喜の炸裂を紫色の虚空に留め置こうとして惹き起こす、あの、いま斬首されたばかりの人間の背や足に踊るような痙攣を、心臓に、腹に、喉の深いところに迎えながら、急に全身に浴びせかけられる、骨まで切り込まれるような冷たさ。あの冷たさにしたところがまさしく水のそれ、暗い濃緑色に湧きかえり、魂を未来永劫に光から引き離す場でもあるかのような、巨大な滝壷の深淵の水の冷たさそのものでなくて、なんでしょうか。
もっとも、暗く恐ろしい深淵を潜ったその水の冷たさも、みどり鮮やかな小草の下を、音をひそめて滝壷からこぼれ出る、澄み切った縷々とした白蛇の躰となって伸びていく間には、いつもながらに和らいで、やがてはまた、永遠の祝福たる日常という特殊な経験にふさわしい温度へと、若い互いの官能の器をやさしく温め合うにふさわしいそれへと、戻っていくのでした。

 (第一章 続く)


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