だれかと
話していることが多い
目覚め頃
助言や指示を
もらっている時も
ある
夢にすぎまい
と
ふつうなら
考える
そうではないと
ぼくは知っている
けれど
1983年3月半ばのある朝
目覚めつつある時
男のはっきりした声が
頭に響き
「エレーヌさんに電話しろ」
とぼくに告げた
“エレーヌさん”は
数年前に会ったことのある
数年前に会ったことのある
フランス人で
電話番号も教わったが
もう一度会うべき用もなくて
ずっとそのまま
メモした電話番号だけが
手帳のどこかに残った
誰とも知れない声に
やけにはっきり命じられたという
たゞそれだけのこと
ぼくはその日のうちに電話し
あなたに掛けろと
目覚める時に命じられたのです
と電話口で言った
次の週の3月18日に会うことになり
人生は激変
想像もしなかった方向へ進む
それ以来27年間
彼女が死ぬ日まで精神は一緒で
終わってふり返ってみれば
めったにない人生の軌跡が残っていた
ルイ=フェルディナン・セリーヌの
『夜の果てへの旅』の冒頭は
「言い出しっぺはぼくじゃない」と始まるが
ぼくとエレーヌの物語の始まりも同じ
ぼくが始めたわけでも
エレーヌが始めたわけでもなかった
目覚めの時にはっきりと響いてきた声が
すべてを開始した
こんなわけだから
教え込まれたことや
常識とされることや
そうすべきとされることを
軽々と超えた意思に
ぼくはいつも導かれていると知っている
さまざまな人生の転回点で
声の介入があったり
奇妙なことが偶然起こったりして
思いつける考えの限界を超えた
異様なねじ曲がりかたを
何度も取らされてきた
ソクラテスはダイモンと呼んだらしいが
導いたり諭したりする声がいつもあり
それとなく体や感情の向きを変えてくる
見えない指や腕というものが
いつもぼくのまわりにある
だから
ちょっと大げさに言えば
ぼくの生は
一時たりとも
ぼく自身の意思による生だったことはない
いつもプロンプターがいっしょで
方向指示もところどころで出る
乱暴なほどにガクンと向きを変えさせられて
切り替えさせられることさえある
いま
2018年2月21日の東京にいて
書斎の窓から皇居を見下ろし
東京タワーを望み
丸の内のビル群をすぐそこに見ながら
これを記しているけれども
こんな状況が構成されるまでの
たくさんの運命の線の束ねられていく節々に
大小それぞれではあったけれど
異常ともいえる突発事態が発生して
その時点その時点での仕事が急に終わったり
友人知人をふいに失ったり
未知の人なのに親しくしてくれる人に恵まれたり
思いもしなかった仕事に向かわされたりと
あまりにいろいろなことが起こり続けて
堅実にひとつの道を歩んできたような人たちの人生とは
まったく異なったべつの法則のもとに
ぼくは進み続けているとわかる
時どき
来た星が違うのさ
とか
内蔵されている宿命がまったく違うのさ
とか
つぶやく時もあるけれど
だれの価値観もほんのちょっとさえ受け入れない
世界観も人生観もわずかでさえ共有し合えない
ほんとうに
違う精神体らしいぼくを
もし
他人にちゃんと説明するならば
ちゃんとプレゼンするならば
どう言ったらいいかな
と迷う
もちろん
そんな機会はありえなくて
だれの目にも触れず
見とがめられもせず
透明に地上を通り過ぎていくだけなので
自己紹介も
自己プレゼンも
まったく
ナシの
せいぜい
韜晦的言語使用をする程度
ぼくはつねに透明な魔術のうねりの中に立っている
自我などまったくなしに
人生の目的も目標もなしに
方針も価値観もなしに
言葉は指先で乱用するだけで
じぶん自身はひとつの単語にさえ
どんな修辞法や統辞法にも使役されずに
つねに空の意識状態で
…で
疑問に思うんだけれど
あなたがたの
あんな
今までの人生って
なにか
価値
みたいなもの
あるの?
ある
とでも
まさか
信じているの?
我不辞向汝道 恐已後喪我児孫 (碧巌録七十)
我れ汝に向かって道わんことを辞せず
恐らくは已後我が児孫を喪わん
わたしはおまえにむかって
言うことを辞さぬが
だがのぅ
そんなことをすれば
おそらく
わたしは児孫を失うことになろうからな
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