2018年12月5日水曜日

栗江栗江


  
なにを描くのでもないように使う時には言葉は信頼できる
言葉がただの言葉である時には
在りもしないいわゆる自分なるものを映す鏡であることを
言葉に要求しさえしない時には

郵便局からの帰り
急に左脚の付け根が麻痺したようになって
歩きながらも
しばらく
夢のように痛みが続いたのは
予知
だったのだろう
あのことの

演技が
演技しようとする俳優の心の先の時間のなかで
ふいに演技として“成る”瞬間だけを
しっかり集めている
もう何度目だろうか
小津安二郎の『浮草』を見直していて気づいた
演技しようとしている瞬間と
演技が“成る”瞬間とは
だいぶ違うもので
演技が“成る”瞬間に移行するのを目の当たりにすると
人はハッとして
演技というものに敬意を抱くようになる

もう
七度は見ている
見れば見るほど見つめ込んでしまう
小津の映像はそういう映像

おや
言葉の話をしていたはずなのに……

わたしはふいに
栗江が作ってくれた卵焼きを食べたく感じる
大阪と尾道に住んでいた時によく食べた
栗江はけんちん汁などをつくるほうが巧みだったが
卵焼きもじつに上手かった
一年半ほどだけ一緒に過ごした栗江
苗字も栗江だったので
栗江は
栗江栗江だった

栗江栗江

郵便局からの帰り
急に左脚の付け根が麻痺したようになって
歩きながらも
しばらく
夢のように痛みが続いて
栗江が
ふいに蘇った

栗江栗江



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