2020年6月4日木曜日

イタリアンレストランでの一夜



     ミルチャ・エリアーデに


映画『ドクターエクソシストINCARNATE』のドクター・セス・エンバーは、悪霊に憑依された人間の潜在意識に入って除霊を行う。視聴者の立場として映画を見ていると、彼が入っていく潜在意識の中は、はじめ、表面的には現実そのものである。ある時点から、奇妙な世界であることが露わになっていく。

 憑依された者のこの潜在意識内の雰囲気に、強い既視感があった。

 もう二十数年前のこと、長くつきあっていたある女が私を裏切り、べつの男に走った。女は、私が貸してあった沢山の物品の引き渡しや処分に関わる話さえするのを拒否し、電話にもメールにも出なくなった。
 ようやく、一度会って話すことになり、女の住まいに比較的近い大きな駅で待ちあわせた。駅から遠くないイタリアンの店に入り、夕食をとりながら話をすることにした。
 店内は、狭くもない、広すぎもしないレストランで、オレンジ色がかった照明の薄暗い空間である。雰囲気は悪くない。むしろ、落ち着いて話もでき、食事もできる雰囲気だった。
 ここで女と話したことも、女とのいきさつも、その後のことも、どうでもよい。それらは、チープなテレビドラマを満たしているような凡庸な挿話のピックアップや、それらの集積の、いかにもありきたりな提示にしか結びつかない。
 
 今ここで思い出しておきたいことは、女と私がそのイタリアンレストランの店内で席に就いた時のことだ
まわりにいた客たち全員が、その頃の私の知りあいだったのだ。
 客たちのテーブルは、ぜんぶでどのくらいあっただろう。ざっと見わたしたところ、10席から14席ぐらいではなかったか。
 店員が来て、水やおしぼりを置いていく。また来て、注文を取っていく。そういうことの前後、それとなく周囲を見わたして、他の客たちの様子や食べているものなどを見て、驚かされた。すぐ近くのいくつかのテーブルの客たちも、離れたテーブルの客たちも、だれもが私の見知った人たちだった。
私に気づいた人たちは、おじぎをして見せたり、グラスを軽く上げてにっこりしたりし、中には手を小さく振って挨拶の合図を送ってくる人もいる。
 こちらも、彼らにいちいち顔で挨拶を返し、首を動かしてお辞儀を小さく返したり、手を小さく振り返したりした。
 そうして一段落つくと、
「驚いたよ。なんていう偶然だろう、ここにいる客たち、みんな僕の知りあいなんだよ。不思議な晩だな」
 と女に小声で言った。
 そう言いながら、私のその頃の数年来の知りあいたちが、この店に集結するはずがないことを、私はもちろん知っていた。
店内に集まっていた知りあいたち同士には接点はなく、そのあたりに住んでもいない。彼らひとりひとりが私と繋がっているだけで、同じテーブルに座っている同士のあいだにさえ、繋がりはない。
 にもかかわらず、彼らは実際に店内にいる。しかも、私を見つけて、挨拶を送ってくる。
 この時のイタリアンレストランの店内の雰囲気が、ドクター・セス・エンバーが入り込む、憑依された者たちの潜在意識の中の世界のそれに、酷似しているのだ。

 話はこれだけである。
 イタリアンレストランで、他に奇妙なことがあったわけでもない。別れ話は穏やかに済み、女は翌週、物品を大きなボール箱に入れて送り返してきた。いくつかだけ思い出に取っておきたいというので、それらだけは女の手元に残った。
 その後、四年も五年も経った頃、女とは渋谷の駅近い喫茶店で一度だけ会ったことがある。すでに三人の子の母親で、別れた頃の物語は、もうこちらの心には全くこびり付いていなかったが、むこうにも残っていなかった。こちらのプライベートなことを明かすべき相手でもなくなっているので、どうでもよい話題を浅く交わす。むこうに小さな子どものことをしゃべらせ、私も知っている女の父母のことをしゃべらせ、二時間近く過ぎたところで別れた。

 あの晩、イタリアンレストランに集まっていた知りあいたちとは、その後、たったひとりとさえ、一度も再会することはなかった。奇妙なことと言えば、これこそ、奇妙なことと言える。
あの現場から時間的にも遠ざかって、客観的にふり返り直してみると、どう見ても、あれが現実だったとは思えない。しかし、私も女も本当にともに経験した時間なのはたしかで、ふたりの意識の共通部分に現じたべつの次元が、現実の場所に二重写しになって出現していたのではないか、と思う。

 ひとつ、大きなことがある。
あの晩以来、私は、現実の現実性なるものを、丸ごと、うのみに信じることをやめた。
人が、あまりに無反省に信頼を寄せる現実なるものを、まやかしとしか見なくなったのである。


『ドクターエクソシストINCARNATE』(ブラッド・ペイトン、2016)





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