どんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、
みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神――
それが散文精神だと思ひます。
広津和郎『散文精神について』
「~脳」という言い方があるが
それを使えばわたしは完全に「散文脳」で反「詩脳」なので
分かち書きの自由詩形を用いてなにかを書くというのは
ほんとうにストレスフルである
短歌形式も嫌いならば俳句形式も嫌いで
はっきり言って調子が狂う
19世紀後半から詩歌はオツムの調子の狂ったヤツ
を装って錯乱音頭を踊るのがタシナミになっているから
いくらか調子が狂ったぐらいのオツム状態で書くのが
まァ合っていると言えば合っているのだが
正直言ってそんなにいつまでもつき合っちゃいられないよ
と思っているのは事実
わたしがどれほど詩歌から遠い人物であるかは
実際にわたしに会って話してみればわかると思うが
なんでもなんでもディスタンスの時代の昨今
わたしほど反「詩脳」である人間がいるとはわかりづらい
詩歌の話になりそうになると「まあまあ、あれはホラ、
特殊な流行らない小さな芸の世界ですからね」と逸らしてしまう
それなのにどうして自由詩形につき合うのかといえば
つらつら思うに10代でおふざけに書いてみた際の遊び感覚が
忘れられないでいるからであるとともに長年つきあってきた結果と
悪く馴染んでしまった「病膏肓に入る」
いまだに進行中だということだろうと自己分析してはいる
そんな仲間が一杯出てくるから歌舞伎の世話物は好きなのかもしれ
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