2023年4月13日木曜日

かたくなに枝にとどまりゐし楓


 

 

先師斎藤茂吉先生には七十歳以後の作はない。

私は未到の境地をのぞきみる気持で作歌しようとしたのであつた。

佐藤佐太郎『星宿』後記、昭和五十八年

 

 

 

 

佐藤佐太郎の歌集『星宿』の歌は

いくつかの選集に載っているものしか

読んではいなかった

選集というのは便利でもあれば大事なものでもあるが

作者のたましいの流れを伝えづらいもので

選集だけでよしとしていると

いちばん大事なものを取り逃がすことがある

萬葉古今新古今の類でさえ

それぞれの歌人たちのたましいを掬い得ているとは

まったく思えない

新古今を読んで藤原定家がわかったつもりの人は危うい

藤原定家全歌集を読んでみれば

まったく違った定家が心にはようやく出現してくる

 

神保町をそぞろ歩きしていて

矢口書店の戸外の棚を冷やかしていたら

500円という安価で『星宿』が売られていた

岩波書店刊の初版で今もきれいなままの本だが

文化果つるこの時代にあっては500円と捨て値される

 

短歌や俳句はもともとの歌集や句集で読むと

まったく趣が違ってくる

特別な言葉を使わずありふれた日常語を並べつつ

味のある深い詩境に一句ごとに刻むように入り込んでいく

佐藤佐太郎のような希有の歌人にあっては

歌集そのものを読んでいくのは贅沢な小旅の味わいに似る

 

作者七十以降の作なので

大げさに声を荒げない地味でおだやかな歌が並ぶが

それらどの歌も絶品であるところに佐藤佐太郎の奇跡がある

現代の高年齢層の人たちが佐藤佐太郎の歌を日々読めば

どれだけ心の憩いとなるだろうなどとよく思うが

時代の気まぐれに左右されつつこの世に生きてあることの無残は

良書はついそこに手近にあるというのに

そこに得られる最良の読書にほとんどの人がたどり着けないことだ

若い頃からの読書の孤独な修練というものが要り

人知れず紡ぎ続けてきた内面の味覚磨きが要る

嘘のような安価で古書店に溢れている本を

黙ってゆっくりと孤独に味わっていく至福は

長い時間をかけて読書感性を磨いてきた者にのみ許される

 

この日ごろわが握力の衰へを朝々洗顔のときに思へる

 

なんでもないようなこんな歌こそ

多くの老人たちの共感を得るのではないか

などと思ったりするが

世間で声高になにごとか主張したり

次々と本を出したり

老いや高齢者の問題を話題にしたりする人たちが

そもそも佐藤佐太郎を読んでいない

古来老いを尊重してきた日本や中国の文化には

老いの内面を豊かならしめる多くの古典が残されているというのに

世間の言論を気まぐれに左右する人びとには

それらについての豊富な読書経験が欠落し過ぎている

本来そういう人たちが世の中の中央に出てはいけないのだが

幼稚園のお遊戯の時間さながら

その時その時で騒ぎはしゃぐばかりの大人子どもたちだけが

いつもワアワアいっているばかり

漱石の『虞美人草』にあるごとく

「ここでは喜劇ばかり流行る」と思い出したくなるばかり

 

かたくなに枝にとどまりゐし楓その枯れし葉は若葉となれり

 

昭和五十四年の作のうちこういう歌があったが

これなどはたいてい選集には入れないので

わたしにとってははじめて読む歌となった

ひと鉢だけだが楓を育てているので

秋に紅葉した楓の葉が春まで枝に付いているのを

毎年のように見てきていてこの光景はよくわかる

紅葉したのが枯れて冬じゅう枝に付いたまま

桜の咲く頃に出てくる若い青芽に混じりあう時期が来るが

青芽がやがて緑のてのひらのように広がって

楓らしい葉となっていこうとする時に

ようやく昨年の秋に紅葉した枯葉たちは落ちていく

 

さすがに佐藤佐太郎はよく見ていると思わされる

こういうところまであたりまえによく見ていて

興が乗れば日常語でわかりやすく歌にしてしまえる

そんな人たちの内面にだけ日本の文化というものは宿り

声高にもならねば騒ぎ立てもしないで

四季をただ過ごしていくという顕われかたをする

文化といい精神と呼ぶべきものはどんな時代にあっても

黙って静かに四季を見続けていく人たちのありようであり

大げさな言辞をみずからは弄すことなく

書を開いては閉じるのをくり返して

すこし疲れれば空に視線を放って

かなたのあの青さやうす青さに

しばし目を休ませたりする人たちのものである






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