イエスが喩えを用いて話す理由
とされるものが
次のように
『マルコによる福音書』に書かれている
イエスがひとりになられたとき、
十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとが
たとえについて尋ねた。
そこで、イエスは言われた。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、
外の人々には、すべてがたとえで示される。
それは、
『彼らが見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがない』
ようになるためである。
4・10―12
見逃しがちになるが
イエスの行動において
じつは
もっとも根源的な矛盾に満ちた
奇妙な行動を
伝えている個所である
民衆をして
見ても認められないようにし
聞いても理解できないようにさせ
赦されることがないようにと
イエスは
最初から企んでいる
それなのに
どうして
民衆に語るのか?
最初から
語らなくてもいいではないか?
弟子たちでさえも
もし喩えでのみイエスから語られていたら
理解できなかっただろう
イエスは
弟子たちだけは特別扱いしている
イエスは、人々の聞く力に応じて、
このように多くのたとえで御言葉を語られた。
たとえを用いずに語ることはなかったが、
御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
4・33―34
ひょっとしたら
サタンに餌を与えるためか?
また、ごくわずかの「御言葉を聞いて受け入れる人たち」にも
「三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実」を
約束するためか?
種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
道端のものとは、こういう人たちである。
そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、
すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。
御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
自分には根がないので、しばらくは続いても、
後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、
また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。
この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、
その他いろいろな欲望が心に入り込み、
御言葉を覆いふさいで実らない。
良い土地に蒔かれたものとは、
御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、
ある者は三十倍、ある者は六十倍、
4・14―20
イエスの語る喩えは
サタンに届き
石だらけのところにいる者たちに届き
根のない者たちに届き
茨の中にいる者たちに届くが
よい土地にいる者たちにも届く
ごくわずかながら
イエスははじめから
「よい土地」そのものである者たちしか
喩えの届き先として
相手にはしていない
この差別づけは
遠く
パウロの述懐に繋がっていく
この民のところへ行って言え。
あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。
『使徒言行録』28・26-27
『マルコによる福音書』そのものの記述の
再録といっていいのが
よくわかる個所だ
パウロは
イエスが求めたのと同じ姿勢を
民に求めている
何を聞いているかに注意しなさい。
あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、
持っている人は更に与えられ、
持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
4・24-25
イエスのこの助言が
素直に伝わっていく相手は
幸せなるかな!
と
なるのだろう
キリスト教信仰世界に
おいては
しかし
「よい土地」そのものである者たちは
それでいいとしても
それでは
喩えについて説明を受ける弟子たちとは
なにか?
彼らはあきらかに
「よい土地」そのものである者たちに
劣っているではないか?
ここに
霊的なイエスの策略と
遊戯と
冷酷さが
じつは
ある
天使ばかりか
つねにサタンとともにあり
あらゆる悪霊たちに知られているイエスが
人間の条件と
存在の条件に亀裂を入れる危険な遊びをもたらすために
ある意味
非常な悪意を抱いて
人界に出現したと見たほうがいい
イエスは四十日間そこ(荒れ野)にとどまり、
サタンから誘惑を受けられた。
その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
1・12―13
悪霊はイエスを知っていたからである。
1・34
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