彼女が死んだ時には
あまり悲しくはなかった。
ああ、ついに…、と思っただけ。
こういう時が来るとは思っていたが、
はやかったな、ちょっと…
まだ保つと思っていたんだけどな。
そんなふうに思っただけ。
本当に悲しくて
涙が出てしょうがなかったのは
もう良くなる見込みがほとんどなくて
後はどんどん
衰弱していくばかりとわかった時。
まだ動けるし
食事もできる
歩いて用足しにもいける
しかしもう
医学的になすすべはない
体の自然な回復力がもしうまく働いてくれれば
まだまだ保つかもしれず
ひょっとしたら治るかもしれないが
もう出来ることはないのです、と
担当医師に言われた頃。
食事がさらにとれなくなり
痛みもほうぼうに出てくるかもしれません。
最後は意識を落としていくことになるでしょう。
そんなふうに医師は言い
意識を落としていく
という静かな言い方に
静かに心の底まで衝撃を細く流し込んで
黙って立っていた
病院の廊下のつきあたりの角…
その夜、彼女に別れ
病院を去り
電車を乗り継ぎ乗り継ぎ
長く家の最寄り駅まで向かって
家までとぼとぼ歩く夜道で
涙が出続けて道が見えなくなった。
生きていて
意識がはっきりしているというのに
数カ月もしないうちに
その意識を
落とさなければならなくなる時が来るかもしれない
というのだ。
意識はいのちそのものではなく
いのちはもっと大きく曖昧なものだが
しかし本人には
それこそいのちそのものに感じられているだろうもの
意識。
それを「落として」、ぼんやりさせなければ
眠らせなければ
耐えられなくなる痛みが
もうすぐ襲ってくるかもしれない
というのだ…
けっきょく
そんなことにはならなかったが
死ぬ前にわたしの中で先になにかが死んでいたからなのか
じつは死なないで死をこえて生き続けているものがあるからか
とにかくも彼女の体の死んだ日
悲しくはなかったし
取り乱したりもしなかった。
…ああ、でも、涙は出た。
霊安室に運ばれる遺体のすぐ後を
遺体といっしょに
足早に病院の中を行く時
涙がひとしきり出て
また廊下のようすが見えなくなった。
しかしすぐに涙を拭いて
なんでもないような顔をして
看護師たちに応対したのだが…
でも、後で、妻が言った。
泣いていたわね
あなた。
この人が泣くんだ、と思ったわ。
泣いていたわ、あなた…
いや、涙がちょっと出ただけのことで
泣いていたんじゃない
と応えたのではなかったかな…
本当に悲しくて
涙が出てしょうがなかったのは
意識を落とす…、と聞いた時の
あの病院の廊下のつきあたりの角…
後にも先にも
本当に悲しくて
涙が出てしょうがなかったのは
あの時だけ。
それ以外の時はちがう。
悲しかったわけでもなく
涙がちょっと出ただけのこと…
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