2013年1月6日日曜日

2013年1月5日の寝起き際の…




 外交上の難しい仕事の続くなか、とりあえず、その日は中断して帰宅、―といっても、仕事場に近いホテルに戻るというだけのことだが―、ということになった。
遅い午後のことである。

ホテルに向かう途中にある大きな公園を歩いて過ぎようとしたら、100円ショップ屋がずらっと露店を展開しているところに出た。
 安い雑貨をわざわざここで買う必要は当面なかったが、生活雑貨というより、お祭りの際に参道に並ぶ露店が子供用の玩具や安価な遊興品をところ狭しと並べたような雰囲気につられ、足をとめた。
 安いさまざまな造花が無数にまき散らされたような商品の平台が、何メートルにもわたって連なっている。なかには大きめの商品もあるが、多くは小さなもので、それがきれいにぎっしり並べられているさまは、どこかミニチュアの商店街の模型を鳥瞰しているような気にもさせられる。こんなにたくさんの小さな商品のひとつひとつを、どこかの誰かが発案し、生産ラインを造り、そうして大量に製造して、いまここに並べられることになったのだと思うと、少し目がまわるような気にもなるが、人間というのはこういう作業を、あるいは所業を、いたるところで、さまざまな領域でえんえんと続けてきて、いまに到っているのだ。

 ざっと一望し、そろそろ立ち去ろうと思った時、小さな本が並んでいる一画を見つけた。
ポケットに入るような小辞典のたぐいらしかった。用字辞典や英和辞典、国語辞典、カタカナ語辞典、生活便利事典などといったお決まりの小辞典が並んでいて、いまさらながらに、こんなものをわざわざ100円ショップで買う客がどれくらいいるのだろうと思ったが、そのなかに英英辞典らしきものがあるのが目につき、手にとってみた。
 仕事柄、英語関係の辞書はよく使うし、暇さえあれば、自室のソファーででも、暑さのそろそろひけてくる頃のカフェのテラスででも、仕事のことどころか自分の人生のすべてさえも忘却して英米小説を読み耽るのが唯一の趣味のようなものなので、そのためにもやはり、英語の辞書は使う。おのずと、自分にとって使いやすい辞書にたいする感性やアンテナは鋭くなっていた。
 ぱらぱら見てみると、これが存外、いい辞書であるのに気づいた。語義の説明のわかりやすさ、語義の配列のぐあい、適切な用例、見出しの活字の見やすさ、くり返し開閉されるのに耐えうる綴じぐあい、どれをとっても、100円とは思えない見事な出来栄えである。小辞典には、実務のセンスのない学者が編集したような、一見すばらしい体裁を持ちながらも使いづらいものや、あるいは、単語帳に毛が生えたような、語法のまったく見えてこないものなどもあるが、いま手にとっている辞書がそうした陥穽に陥っていないことは明らかだった。
総語数はと見ると、約2万語とあった。この小ささと質で、しかも100円で、2万語というのは驚くべきものである。買っておいてもいいかもしれない。ただ、すでに他の小辞典を持っており、Oxfordから出ている小辞典も数冊、Collins COBUILDのも数冊、もちろんLONGMANのものも数冊持って、ときに応じて使っているので、さらに一冊を買い足す必要はなかった。一冊も持っていない旅先でならば、手にとっているこの一冊は重宝するだろうが、いま戻って行くホテルの部屋にも、Oxfordの小辞典があり、わかりやすく引きやすいことこの上ないLongmanDictionary of Contemporary Englishまである。
こういう事情なので、平台に小辞典を戻すことにしたが、いつかこれが役に立つような時もあるのではないかとは、やはり、思われる。

心がひかれるままに、平台に並ぶ他の本の背に目を泳がすと、べつの英英小辞典が目にとまった。さきほどのものと似た装丁なので姉妹版に違いないが、2倍近い分厚さがあり、裏表紙には語数20万とあった。
露店の100円ショップで、語数20万の英英辞典か? わが目を疑い、さっそくページをあちこち繰ってみると、どうやら謳い文句に嘘はないようで、殺人的ともいえる小さな文字で、ぎっしりと見出し語も語義も用例も並んでいる。手のひらに乗る小ささのなかに20万語が整然と並んでいるらしい眺めは壮観で、こんな企画を遂行した壮挙にも驚かされ、記念のためだけでも購入しておくべきかと思われた。
ただ、あり得ないほどに文字が小さく、紙も薄く、外出時、かりにこれをどこかに持ち出したとしても、とてもではないが検索の用をなすとは思えない。時計の文字盤に記された時計会社のロゴや、あるいは結婚指輪の内側の年月日のような小ささ、というより、細密さで、かなり大きな虫めがねでも、息をとめて集中しないと容易には読めないような小さな小さな粒の羅列である。
一種の珍本とみなせば、時代が経つほど価値が出るとも思われ、こういうものを有難がりそうな二三の友人の顔も思い出されて、自分には不要だが一冊買っておこうかと、気持ちが動きはじめた。なんといっても100円なのだから、しばらく書架の隅で埃をかぶることになろうとも、無駄になるというほどの買い物でもない。
とにかく一冊買っておこうと心に決め、この件は一段落という気分になった。奇妙なもので、まるで一仕事終わりでもしたかのようなホッとした気持ちになり、他のものももう少し見ておこうかという余裕が出てきて、周囲の品物をふたたび眺めはじめた。

と、どうやらフランス語辞典らしきものが、なんと箱入りで並んでいるのに気づいたのである。
箱といっても辞書がふつう入っているような本の箱ではなく、おもちゃや他の商品が入れられているようなふつうの小箱である。両側から蓋が開き、表には商品名と写真と宣伝文句、裏には商品説明が書かれているような箱だ。
100円ショップにフランス語小辞典が売られていること自体驚きだが、他の小辞典と違ってそれが小箱に入れられているのも驚きで、これはまたどういう酔狂だかと思い、手にとってみた。ちょっと振ってみると、なかで辞書がことこと動く。箱のなかに隙間があるのである。
箱を開けて小辞典をとり出し、ぱらぱらとめくってみた。仏和、和仏、と分かれており、その後にはさらに、「復習」と銘打たれたかなりの量のページが続いている。小辞典に仏和と和仏があるのはわかるとしても、「復習」というのはどういうわけかと、そのあたりをめくって眺めてみた。どうやら、語法や注意すべき文法などが選ばれて、用例とともに説明されているページで、ざっと見るだけでも、なかなか的確かつ簡便に、うっかり間違えやすいところや忘れやすいところ、難所などが並んでいる。しかも、面白いのは、そこの各項目に引用されている例文が、すべて、シャンソンや俗謡から採られていて、どうやらこれがこの辞書の目玉になっているらしい。
 これはまた、なかなかの奇書にめぐり合ったもの、と面白く思い、今度は仏和の項目を見てみると、ここでも引用例文に癖があり、すべてがパラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』のフランス語訳からの例文のみで成り立っている、とある。ヨガナンダは20世紀インドの聖人で、カリフォルニアにわたってクリヤ・ヨガをアメリカに広めたヨガ行者だが、ふつうの書物としても抜群に面白い彼の自叙伝は、聖性の向上や神我の合一、さらには超能力の開発などに興味を持つ人々にとっては重要な必読文献である。もともと英語でかかれたこの本のフランス語訳のみを仏和部の例文として用いるとは、これは生半可な酔狂ではない。
 いったいどういう姿勢で編まれたフランス語辞書なのかと裏表紙を見ると、さまざまな方針や特徴が書き並べられており、すでに気づいた特徴の他に、たとえば活用の項目については、「フランス語動詞の活用の特性が独自の経験的視点から分析され尽くしており、初学者にも急速に全動詞活用形が脳細胞に吸収されうる工夫が施されている」とあって、これはたんなる奇書に留まらぬ、並々ならぬ意欲的な挑戦の書であるのがわかった。
 こんな小辞典を作ったのは、これはまたどんな人物かと編者名を探すと、宇野功一郎とある。これまで、英米文学とともに、フランス語の文学の読書も趣味のひとつにすべく、長い年月を費やしてフランス語ともつき合ってきたので、だいたいの主な辞書の編者の名には通じているつもりだが、宇野功一郎なる編者の名を目にしたことはなく、はたして、フランス語学の専門家などではなく、在野の実務家か誰かだろうかと思いながら、しげしげとこの名を見続けていると、ふいに白昼の幻影に襲われるようなぐあいに、一連のイメージが頭に繁く浮んだ。

 どうやらインドあたりの路上で、倒れている馬が見える。死んでいるらしい。馬といっても、おそらく馬であっただろうと思われる形状のもので、頭部が見えているが、無数のウジ虫が全体に蠢いている。倒れて死んでからしばらく経つのだろう。路上には人の通りもあれば、車や荷車の通行もあるようだが、誰も気にしないようで、避けながら通行していく。
 その近くには、倒れている人間の体がある。こちらも馬と同じく、ウジ虫にいっぱいたかられていて、頭部から顔にかけて、たえず波のような微動が見られるのは、おそらく内部のウジ虫の動きが表面の皮を波打たせているのだろう。この死骸のイメージを見ながら、ああ、これが宇野功一郎なのだな、と感じた。見ているのは、どうやらこの人物の最期の姿であるらしい。死んだ瞬間の様子は見えないが、死後しばらくしてからの死骸のさまが見えているのだろう。
 しばらくすると、警察らしい複数の人々が到着し、人間のほうの死骸のまわりに集まった。誰かが剣のような長い金属の棒片を、頭の上部から腐った顔のなかに浅く挿し入れ、ひょいと浮かせて、顔を剥がした。すると、どういうわけか、顔の骨も腐りきって軟らかくなってしまっているらしく、蜜色の空洞がぽっかりと開き、まるで蜜蜂の巣を開いたようなぐあいになっている。人間の頭部というより、蜜色や黄色などの色合いの混じった大きなスポンジが詰まっているかのような、奇妙な形状の内部だった。
 ともあれ、この人物がとうに死んでおり、それもかなり以前に死んでしまっているのは明らかで、警察としてはこの遺骸を回収して葬る他にない、といった様子だった…

 一瞬のうちにこれらの光景を見て、どうしてこんな死骸のことを見るのだろう、宇野功一郎がこの人物だったようだが、それにしてもどうして…と思いながら、100円ショップの露店の前でしっかりとわれに返り、ともかく、このフランス語辞典を買い、さきほどの20万語の英英辞典も買って、そうしてホテルに戻ってシャワーを浴びてから、英語かフランス語の小説を抱えて、あらためて近所のレストランに食べに出るか、と思った刹那、目が覚めた。

 手もとには宇野功一郎編のフランス語小辞典もなく、あんなに長く平台をつらねて並べていた100円ショップの露店もなく、20万語の英英辞書もなく、8畳の寝室の天井が見え、薄いカーテンからは朝のひかりが洩れている。枕もとのデジタル時計は、2013年1月5日を表示している。
 夢だったのか、それにしても、ひさしぶりになんとリアルな…と思いながら、しかし、とにかくも、あまりのこのリアルさは、意味がわからないながらもメモしておくべきかもしれないと考え、布団から起き出てテーブルに向かい、パソコンを起動させて書きはじめた。
ところが、簡単にはレジュメさえできないような予想もしなかった出来事が数分後から立て続けに押し寄せてきて、夢についてのメモを書き終えるどころか、それまでの人生をすべてひっくり返してしまうような展開にまで到り、…ようやくのこと、ひさしぶりに思い出して、あの懐かしい2013年1月5日の寝起き際の意識に戻って、たったいま、メモを完成させた次第である。

あの夢のメモを完成させたいま、あれを見て以来、現在にまで起こり続けたことの数々についても、いまはまだお話する暇がないとはいえ、いずれ詳らかにお話したり、書き記したい気持ちはある。
思えば、長い時間が経過したものだ。
当時の知己も、みな亡くなったか、消息が絶えてしまったかしている。
来年で50年が経つことになるが、あの夢を境に、私ばかりか全人類に襲いかかってきた出来事を語り出すには、ちょうどよい時節ということになるかもしれない。とりあえず、きょう、2063年1月5日のメモは、ここで終えておくこととしたい。 





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