2015年5月26日火曜日

現実とは(やっぱり)なにか



たくさんの悲喜劇が続いているが
すぐあそこ
すぐそこにそれらは見えながら
遠いというより
次元を異にした別世界の
すべて架空の物語

―いいかい、あらゆる出来事は絵空事なんだ
―いいかい、現実は架空、架空は現実

そう、すべて
すべてすべてすべては物語
どんな記述も
写真も
動画も
わたしたちが閉じると
それらは済んだこと
ページが繰られる
本が閉じられる
幕が下りる
とは
よく言い表わされた表現

まだ呼吸さえしたことのない
けれども古い
ずいぶん昔から手元にあるぬいぐるみの
熊のアルチュールに
現実とはなにか
とぼくは問いかけ直す

アルチュール
なんて
昔むかしの飛び抜けた少年詩人にちなんで
世田谷の池ノ上の二階のだだっぴろい借家で
ひそかに付けた名を
親しく共有した人はもう居らず
今はぼくひとりで
おまえの名前を支えている始末

現実とはなにか

もちろん
血流の速さや
脳内の電気信号の速さ
というより
それらのどうしようもない遅さが
現実なるもののインフラそのものだということなど
重々承知の上で、ね
ふにゃふにゃ
すっかり背筋も横倒れしてしまったおまえ
レイ・ブラッドベリの『10月はたそがれの国』の
骨を失って蕩けてしまった男のようなおまえに
ぼくは問いかけ直す

現実とはなにか

現実とは(やっぱり)なにか

(やっぱり)を
入れておきたい、ね
と思いながら、ね




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