女性詩人のエッセイ集が文庫になっているのを書店で見た。
きらいな詩人である。
いや、きらいというのではないが、つまらない。
ほんとうにつまらない。
読んで楽しいものはなんでも読むたちなので、面白ければ読む。
なんどか読もうとした。
しかし、つまらなかった。
詩もつまらなければ、エッセイもつまらない。
短めの小説まで書き出したので、読もうとしてみたが、 つまらなかった。
以来、この詩人の名を見ると、げんなりする。
あれだけ期待して本を手に取ったのに、 というがっかり感がぶり返す。
なぜだか、全共闘世代のさらに上あたりに好まれ、 持ち上げられていた。
いっしょに朗読をやったこともある。
彼女が脚光を浴びはじめていた頃で、ちゃんと聞いたが、 つまらなかった。
生活のなかに見出される詩の瞬間をとらえる、とかなんとか。
幸田文などは大好きなので、生活のなかに…系も、嫌いではない。
なのに、この女性詩人のものは、どれもこれもつまらない。
どうしてこんなにつまらないのだろう、と自問してしまう。
そういえば、向田邦子もつまらなすぎて、数ページで、 もう堪えられない。
あれと同じようなものか。
こんなものがずいぶん評価されるようではな、と思ってしまう。
なにか、決定的に欠落している。
いつまでも空に飛び上がらないキーウィ鳥。
それでいて、キーウィ鳥以外の鳥に憧れさえしない。
あるいは、どこまで行っても離陸しない飛行機もどき。
そして、なぜかそれを褒め、 ドローンやミサイルを貶める取り巻きたち。
つきあいきれない。
とてもではないが、この国では、 ぼくの好みが生きのびられる隙はない。
なんでも読み味わうことができるし、評価する才覚がある。
批評家っぽいそんな才気をちょっと自慢にしてきたので、苦しい。
どうしても評価できない、 どうしてもつまらないものに出会ってしまうと。
こう読んでみれば、じつは面白かった、 という経験を重ねてみたかった。
けれども、どうしてもダメ。
まるで、ダメ。
それでも、ふたたび、手に取ってみる。
ああ。
つまらない、やっぱり。
麗々しく、 かつて若さで鳴らした老作家が解説など寄せて褒めそやしている。
ぜんぜん的外れな褒めそやし。
今回もわざわざ手に取って、努力だけはしてみた。
つまらない、やっぱり。
苦しまぎれ、というのでもなく、
八つ当たり、というのでもなく、
憂さ晴らし、というのに近いものはあったかもしれないが、
遠くないところにあった中国古典の『三十六計』を手に取って、
ぱらぱら、ぱらぱら、ぱらぱら、
やってみたら、
有名な最後の第三十六計に「走為上」とある。
走るを上と為す。
三十六計、逃ゲルニ如カズ。
さすが、中国兵法。
買ってしまう。
面白い。
買わせてしまう力。
こっちには、ある。
こっちには、ちゃんと、ある。
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