2020年1月18日土曜日

透明さと無とを身体とする



 L’invisivilité me semble être la condition de l’élégance. L’élégance cesse si on la remarque. La poésie étant  l’élégance même ne saurait être visible. Alors, me direz-vous, à quoi sert-elle ?  A rien.  Qui la verra ?  Personne.
Jeau Cocteau : De l’invisibilité  dans Journal d’un inconnu (Grasset 1953)





ひさしぶりに
コクトーの「知られない者、知られていない者の日記」を開いたら

見られない、見えない、ということが、わたしには、エレガンスの条件に思える。見られてしまえば、エレガンスは止まる。エレガンスとしての詩も、見られてしまうことには耐えられまい。こう言うと、見られないということが、なんの役に立つのか?と聞かれるかもしれない。なににも。だれがそれを見るのか? だれも。

とあった

この惑星上での
わたしの滞在のしかたを決めた章句のひとつ

コクトーのこの本
グラッセ社の《赤いノート》叢書の一冊は
わたしの唯一の友のものだった
彼女は死んだ

1983年に彼女と古い日本家屋の二階に住むようになった時
ドタドタと足音を立てがちだった若いわたしは
歩き方や振る舞い方の根本的な改変を強いられた
いっさい足音を立てずに畳の上を歩くこと
ものを手にとったり動かしたりするのにも音を立てぬこと
いるかいないかわからないように室内でも戸外でも移動すること

おおげさに言えば
この惑星上に滞在するにあたって透明さと無とを身体とすること

で?

なにも。

敷衍しない
展開しない

通俗小説ではないのだから




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