時間と空間のあわさった中で
あれも知りたい
これも経験したいと
駆けずりまわったり
じっと座り込んで
あれこれの本のページを繰ったり
数式を弄んだりしながら
ぼくらは望んだ
大きな
広い
緻密な
相互に有機的に連関しあった
果てしなく成長し
蓄積され続ける
すばらしい知のありようを
しかし
あらゆる経験が
表象として思い描ける記憶となったり
からだに染み込んで
癖のような記憶になったりしていくうち
そうした記憶の
情報としての物量には
個人で保持したり使いまわせる限界があると
どうしても気づくことになる
かといって
外部にシステムを作って
そこに記憶情報を保存してみたり
組織や社会に移して稼働させようとしてみても
結局はすぐに
力や権力の譲り渡しを招来し
個であるこちら側が支配されることになる
管理主義や全体主義に行き着いてしまう
生活に役立つものとしての知は
どうしても個人のドライブできるかたちでないと
知と呼びうるものではなくなってしまう
そうなると
知へのあきらめが
どこかの時点で必要になってくる
ものを多く持ちすぎるひとが
つねにものをよく使えなくなっていくように
道具としての
情報としての知は
ある程度以上は持たない必要が出てくる
ある量以上はもう求めない必要が出てくる
限られた知は
用いかた次第ですぐに膨らみ
必要に応じて何倍にも増えるが
知が多すぎるようになると
意識はもう索引も入口も付けられなくなり
やたらに物量の多すぎるだけの納屋に
こころも頭もなってしまう
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