人間がまともになるためには次の三つの条件のうちの
いずれかが必要である。軍隊に行くか、刑務所に入るか、
病気で長期入院するか。
松永安左衛門
子どもの頃の主治医に再会した
夢の中での話
ただの夢
子どもの頃の過去の記憶から合成された
意味もない、価値もない、脈絡もない、(…… と言いたがるだろう?
世間よ、人間たちよ、知的な人びとよ、常識人たちよ、
だから先まわりして言っておく、ちゃんと留保を付けておくよ…… )
ただの夢の中でのこと
サウナのようなところだが、
それほど大きな部屋ではない。
せいぜい五六人しか、一度には入れないのではないか。
床に簡易ベッドがあり、横たわっている人がいる。
顔にタオルを乗せていたが、 それが取られると牧野先生とわかった。
牧野博先生。
夢の中でも、牧野先生はもう亡くなっていると知っている。
なのに、こんなところでお会いするなんて、と思う。
先生ももうぼくのことは覚えていないだろう、と思いながら、
牧野先生…、と声をかけて、もうお忘れでしょうが、 と言ってみると
牧野先生は私のことを覚えていた。
いやあ、覚えてるよ。長かったが、よく治ったね、と言われた。
私は十歳から十五歳まで慢性腎炎に罹っていた。
はじめ、全身に大きなおできができ、膿が出続けた。
ツワブキの葉がよいと祖母が言うので、祖母の家の庭だけでなく、
方々の野原や街の植込みの端などにツワブキの葉を取りに出かけた 。
この頃は腎臓の病気が原因とはまだわからず、
なんらかのアレルギー反応と診断され、 体質改善の注射を毎週された。
おできは収まったが、 今度は全身に大きな蕁麻疹が出るようになった。
あまりに酷い蕁麻疹で、顔に出ると小岩さんのようになる。
瞼は開かなくなるし、唇は三倍ほどになってしまって、 水も飲めない。
ボクサーがひどく殴られた後のような顔になってしまい、
いったん症状が出ると、半日は収まらない。
どうして出るのかまったくわからない。
食べあわせやいちいちの食物のアレルギーなどが疑われたが、
当時の医学の知見では解明できなかった。
家から七分ほどの牧野医院に通い続けたが、 セカンドオピニオンのために
東大病院にも慈恵医大にも慶応病院にも調べに行った。
どこの病院でも原因も治療法もわからず、
牧野医院のやり方で妥当なのではないかという結論になった。
やがて、心理的な反応から蕁麻疹症状が出るようになった。
日々の生活の中では、子どもである自分にとって、もちろん、
いやなことやつらいことやつまらないことなどがたくさんある。
宿題がいっぱい出ると「いや」だし、ジメジメしていると「いや」 だし、
テストでいい点が取れないと「いや」だし、登下校で
荷物がいっぱいの時など「いや」だし、 酒乱だった父がまた失敗して、
深夜に父母が言いあいをしているのも「いや」だったし、
実業家だった母方の祖父が父を何度となく救済してやったのを
母が「お父さんにおまえは足を向けて寝られないんだ!」 と怒鳴って
酔って帰ってきた父の頭を踏んづけているのを見るのも「いや」 だったし
それに対して怒り狂った父が母の肋骨を折ったり
耳を殴って聞こえなくさせたりする現場の隣の部屋にいて
布団で耳を覆いながら目を瞑って耐えるのも「いや」だった
父に愛想を尽かした母が私に「あれは人間のクズなんだからね、
あんな人間にだけはなっちゃダメだからね」
と父がいない時に毎日言い続けたのも「いや」だった
そこから徹底的な私への密過ぎる心的傾斜が母の心理に発生し
高校生になってちょっと親しい女の子ができても
喫茶店に呼び出して母が面談をして「あの子はダメね」と品評し
「 ママがちゃんとした子を見つけるからヘンな子に引っかかっちゃダ メ」
と、これも毎日毎日念を押され続けるのも「いや」だった
後にギンズバーグが母との葛藤を歌った詩を読んだ時にも
彼のほうがよっぽど楽だったじゃないかとちょっと馬鹿にしてしま った
(そう、どうしてわけのわからない病気に「ぼく」がなったのか
(じつは、いまの私はわかっているんだよ、両親よ……
(どうして、世間も社会もいっさい認めない
底も深さも濃度もいまだに計測仕切れない魔窟のような魂の泥濘を
(「ぼく」が持つようになったのか……
毎月一回の血液検査
毎週の太い血管注射
毎日三回のたくさんの薬
寒くても暑くても湿っていても蕁麻疹とひどい顔の浮腫
完治はしないと言われていた。
一生うまくつき合っていくしかないねと言われていた
浅間山荘事件も病院の待合室のテレビで見た
三島由起夫の切腹自殺も健常者の甘えた所業としか思えなかった
あの頃
毎週毎週会っていた牧野博先生
月一回の血液検査の結果が届くと
看護婦さんがカルテにホチキスで裏向きに留めてあって
先生は「さあ、今回はどうかなあ…」と言いながら
ヒョイッと表に翻す
そうして健常者なら40以下の数値アスロがどうなっていたかを見 て
「おっ、下がってきた」とか
「わぁ、また上がっちゃったよ」とか
ちょっとしたお楽しみみたいに演出してみせる
はじめのうちは500を超えていた数値が
400台になった時はうれしかったが
それが300台になって今後はうまくいくかなと思ったら
また400台に戻ってしまうようなことがくり返されていくうち
どんなに静養を心がけても200台以下にはならないのが続くと
少年の心というのは深く深くこの世とも人生とも自分とも縁を切り 出す
そんな一部始終に六年間つき合い続けてくれた牧野先生が
おや、
こんなサウナみたいなところに寝転んで休んでいらっしゃる……
そうだ、言っておかなければ
先生
ぼくはまだ奇跡的に生きているんですから
奇跡のように完治して以来まだ再発していないんですから
再発しないまゝまだ生きていけるのかもしれませんから
あの頃のこと
先生
ほんとうにお世話になりました
牧野先生
牧野博先生……
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