自由詩形
というものは嫌なもので
そろそろ
縁を
切ろう
と思っている
自由詩形
では
まったく
なにも
自由に言えた気がしない
ロラン・バルトも逝き
あんなにうるさい批評家揃いだったポストモダンの時代が
ろくに理解も受け継ぎもされずに過ぎてみると
創作
というようなことを
平気で言う人が
ボコボコと音を立てるように出てきて
一気に
十九世紀の象徴主義以前に戻ってしまったかのような文芸シーンだ
その頃には大っぴらには使えなかった
自由詩形
を
アポリネールの苦労や開き直りも思わずに
使いまわす
のが
当たり前の時代が到来してしまった
それに
平然と乗っかって
自由詩形
で
しゃべくりまわしてきた
軽佻浮薄な
わたし
というものもいたわけだ
死ね
死ね
死ね
わたし
後で読み返してみると
~かも
~だろうか
~かもしれない
などという
朦朧帰結を多用しているところもあったりするが
わたし
たいていのことについては
すべてを断定的に結論し終えているタイプなので
そういう言いまわしや結び方は
もちろん
ぜんぶ嘘だった
自分にしか存在のわからない
ちゃちなエゴと
身過ぎ世過ぎのなれ合いをやってきた痕が
わたし
の
自由詩形
だった
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