十月も十三日となった
今年は十月八日が寒露だったが
この頃になると
飼っている鈴虫はどんどん死んでいく
十月二十三日の霜降の頃には
ほとんど姿を消すだろう
昨年のメモを見ると
十月十三日の欄に
「あと一匹。餌を替える」
と記してある
今年は孵化した数も多く
六十匹ほどふたつの飼育ケースにいたので
まだ生き残っているものがある
しかし
生き残っているものは
メスばかりで
オスは昨日死滅してしまった
昼頃までは
まだ生き残っていたオスが
か細く濁った音で鳴いていたようだが
午後に餌を替える時に見ると
オスの胴体をメスが食べていた
メスに喰い殺されたのだろう
死にたての肉は
メスにはうまかったに違いない
喰われた後
脛の長い脚は散らばっていることがあるが
頭や胴のあたりはあらかた喰われ
消えていることが多い
生み落とすことになる卵の養分には
オスのあのあたりの肉が
よいのかもしれない
喰われてしまうオスの遺骸より
枯れ果てた姿で残るメスの遺骸のほうが
見ていると寂寞の感がある
寂寞というより
寂滅というほうがふさわしい
仏教語では
寂滅は悟りの境地をいうらしく
無明や煩悩を離れた境地を表わす
しかし寂滅には
単に消滅や滅びや死の意味もある
喰われもせずに土の上に
干からびて落ちているメスの遺骸は
こういう意味での寂滅の形象のように見える
黒い襤褸のような遺骸には悟りもなく
迷いを離れた涅槃の境地を思わせるものはない
ただ死に絶えているだけである
霊もなければ魂もない
もう夏や初秋の頃の躍動もなければ
その記憶もない
未来もない
今だけがあるが
その今は遺骸となった鈴虫の個体にとっては
もちろん
ないに等しい
鈴虫を飼うことになったのは
昨年菩提寺の榧寺から数匹分けてもらったからで
偶然のことに過ぎず
もらって帰ることにしたのも
気まぐれからに過ぎない
少年時代は蟋蟀やバッタの飼育に熱中したので
馴染みの飼育が蘇っただけのことだが
関東の街中の家の周囲の草はらでは
どれだけさがしても鈴虫が捕獲できなかった少年時代の
鈴虫への憧れが遅く実ったともいえる
昨年は数が少なかったので
飼育ケースの中にいるのを見ていても
まばらでかわいい感じだったが
数が多くなると
黒々した虫がいっぱい蠢いていて
これを気持ち悪がる人もなるほど多いだろうと感じた
しかし飼い続けてみると
他のどんな虫も鈴虫の延長に見えるようになる
虫を飼う人の世界の見え方は深いところで変質していく
それどころか
ケースの中で蠢く黒い鈴虫たちが
ほとんど人間そのものに見えてくるようになる
ただの虫に過ぎないというのに
一匹一匹には性格もあれば癖もある
体のどこかに弱いところのある虫もいる
勇気のある虫もいれば臆病な虫もいる
頭のいい活動的な虫もいれば
あまり動きたがらない虫もいたりする
ともあれどんな虫にも共通しているのは
あの小さな頭や触角を
四六時中前脚でいじくって
拭ったり磨いたりしていることだ
触角を口に運んで舐めてきれいにしていることも多い
いつも顔に手をやっていじくっている人や
目や鼻をよく指で擦っている人や
髪の毛を撫でたりいじっている人や
なにかというとメガネを吹いている人を思わされる
毎日このように鈴虫を見るようになった目で
街に蠢く人間たちも見るようになると
乱暴にまとめて言ってしまえば
鈴虫と人間はまったく変わらない
人間が虫とは違う高等なものだという見方は
根底から間違っているひどい偏見に思えてくる
蚊取り線香を近づけないよう注意する誰かがいなければ
彼らはひと晩のうちに全滅する
餌の様子を見てこまめに替える手がなければ
やはり数日のうちに絶滅する
霧吹きで適度に水分を与えてやる意識の持ち主がいなければ
やはり乾いて死んでいく
水分を吹きかけ過ぎれば
水たまりの中にいるのでもないのに
溺れたようになって死んでいくこともある
飼育ケースという環境から出られない生育条件の中では
注意深く慈愛に満ちた意識がなければ
一週間ほどは保っても
それ以上を生き延びることはできない
孵化から育てることになった今年は
鈴虫が夏の夏至の頃から地面に出てきて
四ヶ月間ほどを生きのびて
晩秋の寒露や霜降の頃には死に絶えていくのが
毎日の餌替えの過程でよくわかった
すりあわせて音を出す羽根が調うまで
どれほど時間がかかるものか
夏の大暑から秋の立秋のあたり
まるで好奇心旺盛な猫の子のように
どれほど元気に歩きまわり
飛びまわるものか
そういう姿も実地につぶさに見続けた
鈴虫らしい音でちゃんと鳴けるようになるのは
ようやく立秋を過ぎてからで
はじめのうちは鶯の初音のように下手な鳴きかたをする
処暑のあたりになると
だいぶ豊かに鳴けるようになるが
競合するオスが増えてきて
競いあうことで鳴き音はよくなっていく
宇宙の音のような鳴き音が
残暑のきびしい秋のうちは毎日毎晩響き続けるが
鈴虫が鈴虫らしく鳴くのは
それでも
せいぜいひと月半ほどの間に過ぎない
オスのいなくなった土の上で
腹の膨れたメスは
卵を生むと力尽きて死んでいくように見えるが
メスの枯れ果てたような遺骸を見るたび
産卵管からつぎつぎと卵を出し終える頃に
ひょっとしたら体内で
重要な血管などが切断されて
それで死ぬ仕組みにでもなっているのか
と考えたりもする
メスの遺骸を割り箸で摘まんで
一体
一体
外に出していくのが
晩秋の寒露を過ぎた頃の日課に
今後も
何年にもわたって
なっていくのかどうか
それは
わからない
だが
ともかくも
今年も
立冬の頃には
一匹も姿のない乾いた土の表面が
冬の寒さを
じかに受けとめるようになっているだろう
小雪や大雪の頃には
飼育ケースの中の土粒たちが
夏から秋の鈴虫たちの賑わいを
寒さの中で
夢見たりするのかもしれない
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