2025年1月7日火曜日

リアリティの作法


 

 

新海誠の『雀の戸締まり』を見ながら

『天気の子』を思い出し

『君の名は。』を思い出していた

 

どの映画にも

物語の磁場の軸として

高校生ぐらいの女子が配され

彼女たちは特殊な能力を持っているか

特別な出来事に巻き込まれる

彼女たちは物語によって

あらかじめ特権的な地位を与えられてしまっている

そうして

普通に暮らす人間たちが気づかないような

世界の隠されたシステムに触れる

 

2016年以降の新海誠作品を見ていて

どんどん上滑りさせられていってしまうような

ある種の苛立ちを感じさせられるのは

焦点を当てるべき対象が

取り違えられているからではないかと感じる

 

現代に本当に必要なのは

特殊な能力もなければ

特別な出来事に巻き込まれもしない

特権的な物語的地位を与えられていない人間に

一瞬だけフォーカスするような物語ではないのではないか

 

物語というのはそれ自体が目なのであり注視であり

対象を特権化してしまうライトでありカメラであり

さらにいえば神の目なのであって

そうしたライトかつカメラの向けられる対象が

もともと特殊な能力を付与されていたり

特別な出来事を運命づけられてしまっていては

特権化は過度に傾き過ぎて

あらゆる特権化を剥奪されている物語享受者たちとの懸隔が

あまりに開き過ぎてしまう

 

ここのところを気にするのが

いわばリアリティの作法だと思えるのだが

現代のファンタジーは

もはや何でもありと言っていいほどに

特殊な者にだけひかりを当て続ける物語づくりで

よくなってしまったのだろうか?

 

『秒速5センチメートル』が優れていたのは

登場人物たちになんの特殊な能力もなければ

なんら特別な出来事も起こらず

彼らが

地上にたまたま生まれて

社会のしくみと偶然に巻き込まれ続けていくだけの

どこの誰でもよいような存在でありながら

それでいて他の誰かの人生との取り替えが可能ではもちろんない

逃げようもなければ放棄しようもない固有性と独異性のさびしさを

目を瞑って深夜の雪の中に立ち尽くすように

ただ冷え冷えと

示していたからだった

 

『秒速5センチメートル』には

リアリティの作法があったのである

 





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