あれは
小学校の何学年のころだったか
サラリーマンだった父が
独立して
越谷のほうの辺鄙なところに
塗装工場を作ったことがあった
車に乗せられて
ときどき
その工場に行くと
春先など
まだ暖かくならないころ
まわりの桃園が
桃の花で満開になって
それこそ
小さな桃源郷のような別世界となり
花をひとつひとつ見たり
かおりを嗅いでまわったり
少年には
ほかでは得られない楽園となった
ディズニーのなにかの物語で
似たような花ざかりの中に
陶然として入り込んでいく話があったが
子どものじぶんとしては
それを思い出して
現実に目の前にする楽園の比喩とするのが
精一杯だった
塗装工場はうまくいかず
父は途中で畳むことになってしまい
まわりの桃園の満開時にも
二度とは行けなくなってしまったが
それだけに猶のこと
満開の桃の花の園は
記憶に楽園として残ることになった
春先になったり
春になったりすると
梅園の満開のさまや
桜の満開のさまは
ほうぼうで見ることができるが
桃の花の夢のような満開のさまは
町中やそこらの郊外では
なかなか見ることはできない
一生にたった一度だが
あの春先にだけ
桃園をひとりじめして
たったひとりで
あんなにたくさんの桃の花を
ひとつひとつ見つめ
かおりを嗅いで
たっぷり時間をかけてさまよい続けたことが
わたくしにはあった
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