2025年10月26日日曜日

いない人

 

 

 

去って行った人よ

 

黄ばんだ

古本のなかへ

 

海鳴りを安いプラスチックの水筒に閉じ込めて

一度だけ

訪ねた最北の岬の

最寄り駅発券の切符を

定期入れの裏ポケットに入れて

みどり

滴る

溢れる

繁茂する草原の夏に

人生の至上の時を賭けて

わたしたちの軌道を逸れて行った人よ

 

放課後に聴いた

マーラーの5番のアダージェットを聴き捨てた

津波の予感の日々の果てに

6番の第1楽章に

耳をすっかり移してしまった人よ

 

去って行った人よ

 

音も立てずに猫はわたしたちの部屋に入り

やさしくも

いちばん貴重なものは盗らずに

夏への扉から

また抜けて行った

 

ジャスミンの茂る柵で囲まれた

サルスベリと

キンモクセイの木が目と鼻を楽しませる小さな家で

あんなにも長く

わたしたちは暮らし

付近一帯の土地を“永遠”と名づけた

 

黄ばんだ

古本のなかへ

 

ロマンチックなものすべてへの

未熟な心の願いそうなやわらかい夢の織物を

なにかのお菓子の空箱だったか

それに詰めて

“永遠”のどこかへ

戯れとして

わたしたちは埋めてみた

 

近くにあった

古い大学のいちばん古びた校舎の

もう使われなくなった大きな階段教室の教壇のわきに

マネキンのように

美しい死のように

立ってしばらく止まってみるのが

好きだった人よ

 

去って行った人よ

 

耐えきれないほど暑いだけで

午後

なにも聞こえない

静寂の青空

 

わたしは

わたしたちから離れて

なにも聞こえないということの音を

鼓膜に吸わされていた

 

すでにわたしはひとりきりだったが

夕方になって

晩餐ともなればわたしたちに

また

ひととき成るのだろうと

知っていた

 

ひとときばかりは

 

黄ばんだ

古本のなかへ

すべては

 

買わなかった

かわいらしかった金魚が

眠さのなかを

泳いで行く

 

そして仮死の戯れを終えて

階段教室のある古びた校舎からわたしたちは

出るのだった

“永遠”のどこかへ

 

“永遠”に

 

古びた校舎の人格が

わたしたちに

とりわけあなたに

ときおり

呟いた

 

去って行った人よ

 

わたしにではない

言葉

 

その頃から

もう

わたしはいない人

 

去っても

行かない人

 

いない人

 




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