去って行った人よ
黄ばんだ
古本のなかへ
海鳴りを安いプラスチックの水筒に閉じ込めて
一度だけ
訪ねた最北の岬の
最寄り駅発券の切符を
定期入れの裏ポケットに入れて
みどり
滴る
溢れる
繁茂する草原の夏に
人生の至上の時を賭けて
わたしたちの軌道を逸れて行った人よ
放課後に聴いた
マーラーの5番のアダージェットを聴き捨てた
津波の予感の日々の果てに
6番の第1楽章に
耳をすっかり移してしまった人よ
去って行った人よ
音も立てずに猫はわたしたちの部屋に入り
やさしくも
いちばん貴重なものは盗らずに
夏への扉から
また抜けて行った
ジャスミンの茂る柵で囲まれた
サルスベリと
キンモクセイの木が目と鼻を楽しませる小さな家で
あんなにも長く
わたしたちは暮らし
付近一帯の土地を“永遠”と名づけた
黄ばんだ
古本のなかへ
ロマンチックなものすべてへの
未熟な心の願いそうなやわらかい夢の織物を
なにかのお菓子の空箱だったか
それに詰めて
“永遠”のどこかへ
戯れとして
わたしたちは埋めてみた
近くにあった
古い大学のいちばん古びた校舎の
もう使われなくなった大きな階段教室の教壇のわきに
マネキンのように
美しい死のように
立ってしばらく止まってみるのが
好きだった人よ
去って行った人よ
耐えきれないほど暑いだけで
午後
なにも聞こえない
静寂の青空
夏
わたしは
わたしたちから離れて
なにも聞こえないということの音を
鼓膜に吸わされていた
すでにわたしはひとりきりだったが
夕方になって
晩餐ともなればわたしたちに
また
ひととき成るのだろうと
知っていた
ひとときばかりは
黄ばんだ
古本のなかへ
すべては
買わなかった
かわいらしかった金魚が
夏
眠さのなかを
泳いで行く
そして仮死の戯れを終えて
階段教室のある古びた校舎からわたしたちは
出るのだった
“永遠”のどこかへ
“永遠”に
古びた校舎の人格が
わたしたちに
とりわけあなたに
ときおり
呟いた
去って行った人よ
と
わたしにではない
言葉
その頃から
もう
わたしはいない人
去っても
行かない人
いない人
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