衣食が足りるとすぐに社会的に自己表現したがる。
社会のなかでやはり上へ上へと出ようとするでしょう。
それがやっぱりサークル詩ですよ。
上へ上へーー社会と同じ構図なんだ。
それは違うんだな。
芸事は物好きのすることですから。
堀川正美「現代詩の問題点と方向(インタヴュー=渡辺武信)」
in「現代詩手帖」1966年3月号
ことばによってであれ
物質的な素材によってであれ
ものを作るのは
作ることが純粋に好きだからでなければいけないし
かりに好きでなくても
どうしても作らざるを得ない衝動に
動かされてしまう
というのでなければ
いけない
そのようなことから作るひとは
作ったものが他人にどう評価されようが
無視されようが
関係なく作り続ける
そのように作る場合
作る過程で
また
作り終えた時点で
作ることに関わる価値論も
思念も
感情も
すべて円環を完成し終えている
けれども
この社会で目に入るひとたちのほとんどは
ひとに見てほしいためや
金を稼ぐためや
あるいは
自己存在の確認のようなもののために
作っている
それを醜いとまではわたしは言わないが
なんと脆弱なことか…
とは危ぶむ
ものを作るエネルギーの動きに
社会や自我を介入させるのはつねに危うい
ものを作るのは
社会や自我と別の次元で行われなければならず
そうでなければ
「作る」という世界のなかに
肉体も社会の影響下の精神も脱いだ
まったく別の自律した身体を育むことはできない
たとえば
ことばでなにか作る
という場合
近代人はすぐに本を作ろうとする
傍から見ていて
本にする価値のあることばを配列し編み出している
という自己認識がそのひとにあることに
驚愕させられてしまう
価値はあるかもしれない
しかし
価値はまったくないかもしれない
価値のないことば配列を印刷して世間に撒くとすれば
それは木材や森林への冒涜であり
自然破壊である
ここのところを
わたしは
あまり譲らないで来ている
ニュースや
情勢分析のための文章と違って
非実用のことばを
詩歌形式に並べていくような場合は
くれぐれも
早急に本にするようなことは避けなければならない
おそらく
一万篇以上の数を作ってみなければ
じぶんがことばで作ることに適しているのかどうかさえ
わからないのではないか
まずは
一万篇以上を作ってみてから
はたして
じぶんに詩歌形式を使える能力やセンスが備わっているのかどうか
判断し
その後にようやく
作ったものの吟味や推敲を行ってみて
さて
本というかたちへの
思いの方向づけ
というものも視野に入ってくる
これらの段階を経ないものなど
ただの藻屑であろう
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