2025年10月5日日曜日

「わたしは誰を追いかけているのか?」

 


 

 

アンドレ・ブルトンAndré Breton

『ナジャ(Nadja)』の

冒頭の文

 

Qui suis-je?

 

もちろん

「わたしは誰か?」

読みとれるのだが

ここで使われている動詞の「suis」は

フランス語のbe動詞にあたるêtreの一人称単数現在形

であるだけでなく

「~に従う」とか「~の後をつける」という意味を

まずは学ぶことからつき合い始めるsuivreという動詞の

一人称単数現在形

でもあるので

「わたしは誰を追いかけているのか?」

という意味も読みとれる

 

      *

 

ブルトンは

冒頭から

ひとつの短文にふたつの意味を担わせることで

ソクラテス以来の窮極の内的な問いに

動的な追跡劇のイメージを重ね合わせるという操作を施し

青年の内的な自己探究の物語を

パリという地域に限ってのことではあるものの

ロード・ムービー化したのだった

 

ロード・ムービーは

軽さを生み

疾走感を出す

さらに

出会うものを次々と取り込んでいく

情報取得の逞しさを感じさせ

それが鑑賞者に

エネルギーを与えたり

主体としての自信を持たせたりする

 

『ナジャ』が

はるか後にジャック・ケルアックJack Kerouacの書いた

『オン・ザ・ロード(On the Road)

に似たテイストを持つのは

「わたしは誰か?」という自己探究と

冒険譚そのものであるロード・ムービー形式を

両者とも

エクリチュールの進行の主要な二軸としている点にあるだろう

(遡れば

アーサー王伝説の諸々の騎士たちの物語も

とりわけパーシファルの物語なども

ロード・ムービーとして捉え直せる)

 

ロード・ムービーの各シーンを形成するのは

人や物や出来事などとの予想もしなかった出会いであり

主人公にとっては

どれも偶然の出会いそのものなのだが

これはブルトンの言葉で言えば

「客観的偶然」

ということになり

ブルトンの言葉である以上

シュールレアリスムの核心的な用語ということになるが

考えてみれば

ケルアックは

シュールレアリスム運動を

アメリカ流に受けとめたビート・ジェネレーション

のなかにいたのだから

「客観的偶然」

にピンと来る感性は溢れるほど持っていた

と言うべきだろう

ビート・ジェネレーションのなかでは

ウイリアム・バロウズWilliam Seward Burroughs IIのほうが

はるかにシュールレアリストだったしダダ的でもあったが

ケルアックの場合は

ブルトンの『ナジャ』のようにともかくも読める小説のかたちで

『オン・ザ・ロード』を書き上げた

と言える

バロウズの小説ももちろん読めるし

すさまじく面白いが

ふつうの小説ばかりに慣れた人は

「ウッ・・・」と

腹部に強烈なパンチをめり込まされて

いったん嘔吐してからの

読書再開

となるだろう

 

ちなみに

ブルトンという名は

もちろん

フランスのブルターニュ地方のブルトン人やブルトン語を意味する

フランス系カナダ人のケルアックが

ブルターニュに起源を持つ移民の子だったことから

ブルターニュ

によって繋がれているのは

気づいてみれば

面白い

 

もっとも

アンドレ・ブルトン自身は

ブルターニュ出身ではなく

ノルマンディーの出身なのではあるので

「名せえゆかりの…」

に留まるのではあるが

 

      *

 

ところで

 

『ナジャ(Nadja)』の

冒頭の文

 

Qui suis-je?

 

「わたしは誰か?」

という意味だけでなく

「わたしは誰を追いかけているのか?」

という意味も表わしている

わからないと

数行後の

 

savoir qui je hante

 

ピンと来なくなる

「わたしが誰に《取り憑いている》か知ること」

という意味だが

ここは

冒頭の文が

「わたしは誰を追いかけているのか?」

という意味を表わしてもいる

とわかれば

すんなり繋がって読めていく

 

「わたしは誰か?」

という意味だけに囚われてしまうと

《取り憑》かれてしまうと

『ナジャ』の原文読解は

はじめから

難破を余儀なくされてしまう

 

      *

 

フランス語文法の基礎を

ひととおり

いちおう学んだものの

まだ

まったく身についていない

大学2年の春

友人ふたりといっしょに

フランス文学や哲学の古典の

おもしろそうなところ

有名なところを

翻訳を参考にせずに

掻い摘まんで原文で読んでいこう

と決めた

 

ブルトンの『ナジャ』の

この冒頭部分も

選ばれ

やる気満々で

取り組んだ

 

ところが

文法の基礎程度を

どうにかこうにか終えた程度では

まったく歯が立たず

いくら単語を調べても

どうにもわからない箇所が頻出して

『ナジャ』原文講読は

挫折してしまった

 

ブルトンは難しい

そりゃあ

シュールレアリスムだものな

などと

情けない逃げ方をして

原文読書会も

なんとなしに

立ち消えになっていった

 

辞書も

よくなかったと思う

大修館書店の古い仏和辞典しかない頃で

初学者にとっての

あの辞書の使いづらさと言ったら

中学1年生に

研究社の英和中辞典をいきなり使わせるようなもので

ごくごく浅い訳語を

なんとか探す程度が関の山だった

 

ある程度

フランス語に慣れた人が

第二次大戦頃までの本の読書の際に

単語の意味を引くには

簡便にして良い辞書だが

そうでないと

とんでもない方向へ向かわされかねない

ご大層な辞書だった

ドイツ語の名辞書の木村相良を

むりに初学者に使わせるようなものでもあって

ドイツ語学習者たちは

三修社から出たロベルト・シンチゲルの現代独和辞典でないと

よくわからない

という話は

1980年代には

よく耳にした

 

『ナジャ』 のはじめのほうには

s’en rapporter à qn/qcなどという

熟語表現も出てきて

現代の中辞典なら

「~に任せる、頼る、~を信頼する」

などという語義を載せていてくれるが

これなどは

ちょっと小さな仏仏辞典では

現代のものでも出ていないので

大修館書店の古い仏和辞典に出ていたはずがない

代名動詞のse rapporter

「~に関係する」とか「関わる」という訳語は見つかっても

もうひとつその先の

熟語を出しておいてくれないと

基礎文法をザッと学んだ程度の者には

処置の仕様がなくなってしまう

ほんとうに

現代のよくできている中辞典さえあの頃にあれば

と思わされる

悔やまされる

 

      *

 

フランス文学原文読書会が空中分解した後

わたしはひとりで

サルトルSartreの長編『嘔吐(La Nausée)』を

全文

細かく辞書を引き引き

何ヶ月もかかって

読了した

まだフォリオ版という廉価版に入っていておらず

ガリマール書店の

ブランシュ版という大判の

紙の分厚い本物を買って

ほぼ全単語を辞書で引きながら

砂漠を踏破するような苦心惨憺をして

読み進め

フランス語の原書として

はじめて全編を読み終えた

 

原文は

翻訳されたものより

はるかに軽く

カジュアルなところもある感じがして

そういうところが

ほんとうはサルトルなんだ

と思ったが

『嘔吐』論を書けるほどよくわかったわけでもないし

あまりに長々と時間をかけて読んだので

構造上の筋のあちこちを

ずいぶん忘れてしまってもいて

なんだか

原文で長いものを読むっていうのは大変だ

ということだけ

とにかくも思い知った

 

それでも

あまりに長々と原文につき合ったのだから

いつのまにか

わたしはどこかで

意識の深いところで

サルトリアンに成ってしまっていたかもしれない

 

翻訳全集を買い込んで熱愛していたバルザックや

小林秀雄の翻訳にやられて

いつもガルニエ叢書版のフランス語で持ち歩いていたランボーより

サルトルのフランス語にこそ

最初に執拗にべったりと接し続けた経験は

わたしの潜在意識のどこかを

確実に

形成したか

あるいは

歪ませた

違いないのだから

 

散文として

サルトルやバルザック以上に惹かれていた

ルイ=フェルディナン・セリーヌなどは

とてもではないが

まだ

原文を読めるどころではなかったのだから

 

 







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