2026年1月31日土曜日

魚だったあなたよ


 

 

ひかりにむかう

もの

思いみよ

とりどりの色の

域にふかく

ふかく

引き込まれて

いく

いく

魚だったあなたよ

ひとやめて

ほわん ほわんと

しちゃいなよ

もう

もう

もう いいの

いいんだよ

ほわん ほわん

魚だった

あなた

 

 

 


 

 

[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 71 (19982)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 
155





春の海


 


手紙書き職人になればよかった

わたくしの書きものには読み手がおらず

そんなものだとわたくしは持ちこたえても

哀しいかなや 文字たちは

さめざめ さめざめと泣くのです

読まれないわたしたちを書いて……と

さめざめ さめざめと責めるのです

ああ 春が来たらことしは

あの文字もこの文字も連れて

やわらかな青空の浜辺まで行こうか

まだ泳ぐには冷たくても

裸足で水遊びして駆けまわれるだろう

あの文字もこの文字もはしゃいで

わたくしに書かれた不幸をひととき

忘れてくれるかもしれないじゃないか

 

 

 



 

 

[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 71 (19982)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 
155


 




 

 


つかれたからだを横たえながら

眠らぬ青い宝石のはなしを思い出した

さらわれてすてきに

レンズコーティングされた双眼鏡などたずさえて

戻ってきた隣の子は無言に

ひと秋を過ごしてしまったとか

 

ああ ふかいつかれ

浮かんでくる色あざやかな風景

いつのまにか

空気もさびしくなった

ひたひたと

肌はどこまで透いていくだろう

 

 

 




 

[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 71 (19982)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 
155


 




死んでしまっても日の出


 


死んでしまっている人が動いている

死んでしまっている人のヴィデオ

コップなんか持って

小さなパーティーのおわり

テラスで日の出を待っている

そよ風が海から吹くのか

前髪がわずかに揺れる

だんだんと明るくなって

日の出はすてきなオレンジだ

死んでしまっても人は動いている

死んでしまってもオレンジ

死んでしまっても日の出

 

 

 




 

[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 71 (19982)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 
155


 



永遠おやじ


 

 

なぜこれほどつまらないのか。

教えてください。

ありきたりのはなしばかりの、ともだち。

先生たちのあのさえないネクタイ。

えらぼねの張った政治家。

詩はあたまのよさを競うばかり。

映画はかってに現代をきどっている。

本、多すぎる。

恋人。けっきょく、あきる。

からだはつかれ、つかれ、つかれ、つかれ、

天国だって、太って脂ぎった連中にとられた。

地獄だって、チェーンふりまわすにいちゃんたちのもの。

ボードレールさん。

あなただって、つまらない。

あなた、古典だもん。

あなた、秀才ちゃんたちの商売道具。

ここでなければ、どこへでも。

そんなあなたのことばが、

ちり紙交換のおやじの仏頂面に負けている。

ああ永遠。

夕暮れのあじあの埃、うらさびしい、

路地ゆくちり紙交換の

おやじ。

永遠おやじ。

 

 

 


 

[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 71 (19982)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 
155


 




2026年1月30日金曜日

ジョン・ヘイワースも死んだ



 

ビニールのむなしさが美しい

それで包むと

死体もちょっとした

クリスマスプレゼントだ

 

 

 

*二十代前半までに親しかった友人たちは、みな 死んだ。自殺11名。事故死2名。病死1名。 ジョンは事故死。もうだれもいない。ぼくの世界は死者ばかりだ。ジョン・ヘイワースも死んだ。ジョン・ヘイワースも死んだ。

 

 

 



 

 

[初出]NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 155


 

冷蔵庫

 


 

死んだ友が出てきて

どうしても

冷蔵庫になりたいといったんだ

きみ つまみ食いしようとして

真夜中こっそり開けたろ?

 

それだよ

 

 

 

 

 

[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 155


 




書物


 


見えているという盲目を脱いで

いに落ちてこなかった

怒濤の海水一滴の捜索

空の青は刃物ではない

書物だ

あんな大きな青紙を仕入れて

一滴の海水を誘惑しようと企んでいた

時空の若書き

 

 


 

 

 

[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 155





思春期

 

 

 

ぬるりぬるりと

切れ目のない波をすくってきて

ほら

ここに死になさい

誘惑してくれるやさしい昼に

会うまでは

もどらないからね

かあさん

会ったら

もどれないからね

かあさん 

 

 

 


 

 

[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 155






主体について

 



トラがきたら

すっかり殺されてしまおう

密林はぼくより

ぼくだ

 

 

 


 

 

[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 
155





ぽんた


 


ジョルジュ・サンクにもリッツにも

飽きた

秋田犬

来たる

 

ぽんた、ってんだ

よろしく

 

 

 


 

[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 
155




宇宙の暗さ

 

 


地図は糸くずになっていく

じんるいは

いまではこんな山頂のぼくだけだ

地球がまるいなんて

うそじゃないか

宇宙とのあいだにまるい

細胞膜を持っていただけじゃないか


ああ   この宇宙の暗さが

ぼくを支えていたのだ

 

 



 

 

[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 
155


 



旅上

 

 

かわいた土地はいなか娘の頬のようで

かわいいと思う

十字架がぽつぽつ立っていれば

村もちかい

このあたりの水はうまいかな

えんぴつをきのうの少年にあげて

しっぱいだったかも

剥げかかったこの十字架の名前を

あと十年は保つようにしてやれるんだが

 

 


 


 

[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 155


 


あたたかいほこりを褒めたたえる

 

 

 

ハイウェイに寝ると

宇宙にもどれる

上と下の意味をずっと

忘れていたな

雑草がどんなに動物ににてるか

忘れていたな

ほこりはぼくを追い出そうとしない

あたたかいやつだ

生きるべき場所をさとるってのは

まったく、やれやれだ

もどってきたのかな

これでいいってことかな

 

 

 


 

[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田115、ホース115205 
155



2026年1月29日木曜日

こころは二人の旅びと

 

 

 

 

ぼくは、自分に物語してるのではないか。

田中小実昌 『寝台の穴』

 


 

 

ひさしぶりに

萩原朔太郎の「こころ」を

読むと

 

いいなあ

詩だなあ

 

こういうのが!

 


こころ  萩原朔太郎
 
こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。
 
こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。
 
こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。
 

 

この詩のあちこちの

印象や意味あいの

流れも

もつれも

みな

すっかりこの詩そのものに

回収され切っていて

さびしさも

悲しさも

ももいろに

うすむらさきに

音なき音して

ふたり

旅人して

 

朔太郎は

けっこう無教養な人だったらしいが

雑誌「表現」の1949年7月の第二巻第六号で

釈迢空、神西清、日夏耿之介、三好達治らが

こんな話をしている

 
日夏  萩原は好きだった。あれのよい所は古典に対して無知だったことだ。それが強味なんだよ。だから彼がおれの所によこす手紙は誤字だらけだ。何をいっているのか、さっぱりわからない。(笑声)
三好  そうなんだ。あの人は特殊な人だから、その萩原さんがあの場合成功していることも、実は後の人の躓きになっているな。
日夏  躓きになっているけれども、あいつはかなり仕事をしていたよ。第一、人間性から考えても、他の連中は──名前をいうのは差控えるが、俗物が多いでしょう。あいつは俗物のゾの字もないやつだ。それが好きだった。
三好  随分間違いやでたらめをいう人だが……
日夏  そんなことは構わないのだよ。それが彼の口語を生かしているのだ。おれは、自分の口語詩をやれといってやった。「氷島」という詩集を書いた、あの前後からスランプが来た。あの前後、どうしてもスランプが脱けられないから君の「転身の頌」を一所懸命読みかえしていると云っていたことがあった。
三好  生活も随分あとの方はでたらめだったようで、気の毒に思いました。悲壮な感じがしました。
日夏  前橋に行くと、萩原の馬鹿息子といわれていた。
神西  萩原朔太郎という詩人は、西洋流の音楽を日本語に持って来た偉大な功労者じゃないですか。
日夏  そうだ。自身何かやっていたようだね。
神西  ギターを弾いたはずですね。
日夏  非常にナイーヴな男なんだ。
神西  音楽的な思考という点では、近来めずらしい人だったと思います。それに犯すべからざるリズムがあるし、清潔なものがありますね。
三好  いや怪我の功名という点で……。しかし、萩原さんは語感がきびしいですからね、こう云っては失礼かも知れませんが、学問はまあなんだけれども、直観力は鋭かったですね。
日夏  何も知りやしない。失礼でも何でもないよ。本当だ。
神西  「恋愛名歌集」など、考証的に見ると飛躍だらけで錯誤も相当あるが、しかし何といっても名著に違いありませんね。

 

これは

ネット上で見つかる

Cogagacco(こががっこ)さんのnote

「わたくしの【萩原朔太郎】研究2022」に紹介されていた

 

『折口信夫対話集』(講談社文芸文庫)に収録されている座談だそうで

この本はわたしも持っているのに

ここの部分はまだ読んでいなかった

折口信夫の一番弟子だった加藤守雄先生には習ったことがあるので

大げさにいえばわたしは折口信夫の

いちばん末端の孫弟子に当たるともいえるかもしれないが

細い線で関わりのあるこういう人たちは

大きな軌道の惑星や遊星のように

ときどき接近して来ては

また遠ざかっていく

 

この座談では

日夏耿之介がこんなことも言っている

 

「いつか僕と佐藤春夫と堀口大学と三人で、大森の望翠楼で一ぱいやりながら話をした時に、堀口は口語体の詩一点張りで行くと主張した。佐藤は文語体の自由詩で行くといった。それで僕は、自分の心持にしたがって、ある場合は口語、ある場合は文語、しかも文語の格律詩でも、文語の自由詩でも、どちらでもいいと、こういうことをいったことがある」

時代は

堀口大學の方向へと向かい

文語使用は

一部の短歌や俳句ばかりになった現代だが

文語というと

萩原朔太郎が晩年

文語に回帰してしまったのが

思い出される

 

日夏耿之介といえば

詩人で翻訳家で早稲田大学教授の窪田般彌先生から聞いた話が

忘れがたい

戦前戦中は早稲田大学で教授をしていたが

戦後の1952年には

青山学院大学で教授となった日夏耿之介は

それでもまた早稲田大学に講師として来ることになった

 

ところが

新学期が始まって何週間経っても

出講してこない

体調が悪かったらしいのだが

ある週に

ついに御出講ということになった

 

有名な詩人でもある英文学者で

かつアイルランド文学者でもあり

フランス文学やイタリア文学にも視野を広げており

オカルティズムや悪魔学や

象徴主義やロマン主義にも通じているとあって

たくさんの学生が教室に集まっていた

 

日夏耿之介先生

教卓に付かれ

さあ

どんなことをおっしゃるかと

学生たちが固唾を飲んで待つと

おもむろに

片手を頭に持って行き

「余は、脳が痛む……」

と嘆息された

 

ただそれだけのことなのだが

文科の学生たちの尊敬措くあたわざる日夏耿之介先生の

「余は、脳が痛む……」

というこの言葉に

教室を埋めつくしていた学生たちは

おおおおおおおおおお……!

となってしまったそうな

窪田般彌先生の面白いところは

こういう場所で

「なんせ早稲田の学生はバカですからね」

と合いの手を入れるところ

 

面白いといえば

窪田般彌先生によれば

昔の早稲田の文科の学生たちには

外国文学に通じているふりをする奴も多くて

「やあ、アーサー・リンバウドは凄いなあ」

「なあに、やっぱり今はアンドレ・ガイドだろう」

などという会話を平気でしていた

なんのことはない

アルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud)や

アンドレ・ジッド(André Gide)

英語風に読んで平気で知ったかぶりしているのだから

「なんせ早稲田の学生はバカですからね」

ということになってしまう

 

こういう窪田般彌先生は

わたしが大学院の修士課程に入った初日

居並ぶ教授たちとの初顔合わせの

ちょっと気まずい雰囲気の仏文資料室の中で

ショートケーキを出してくださって

「ほら、はやく食べなさい」

と言ってくださったのが忘れられない

 

ところで

先の座談の中では

神西清がこんなことも言っていた

 

 

「作詞の仕事が一段落ついた頃、僕は或る高原の宿で中村真一郎さんと泊り合せました。このマチネ・ポエティックの詩人は、今申した作詞の仕事に到頭加わってくれなかった唯一の人ですが、僕はいささか皮肉に中村さんに向って、只今いったような感想を語り、脚韻のためにはまずイントネーションの変革が必須条件ではないかと力説しました。その為には日本語の新たな朗読法、あるいは雄弁術を工夫する必要がある、そしてその為には、例えば大胆に脚韻を踏んだ試作詩を誰か有能な作曲家に頼んで、わざわざその脚韻の個所すなわち句尾が尻上りになるような曲譜に仕立ててもらい、それをNHKかどこかに頼んで繰返し繰返し放送してもらうほかには、打つ手がないのではなかろうかと、そんな話を中村さんにしたように記憶します」

 

脚韻にこだわらなくてもいいように思うが

詩人たちのこういう悩みや試行錯誤を目にすると

万葉集のあれらの歌が皇族の前で詠唱された頃を想像したくなるし

藤原定家や藤原良経や後鳥羽院らが

どんな声でどんな抑揚で歌を披露したのか

どうしても思い見ようとしてしまう

江戸や明治に小声で歌うお座敷唄などのほうが

ひょっとしたら日本語には向いているのかとも思ったりする

 

フランス語のよくできた中村真一郎などは

文学者の詠唱や朗読といえば

アンドレ・マルローの演説のような朗々たる舞台っぷりを

どうしても思い浮かべたものだろう

https://www.youtube.com/watch?v=UrBWr6QZ8fw

これはフランス古典悲劇のセリフ使いから来るもので

日本でこれをやろうとすれば

どうしても歌舞伎の言いまわしに寄っていってしまうことになる

しかし明治維新以来

必死に歌舞伎的な言いまわしを切り捨ててきた日本詩歌にとって

歌舞伎的な声音や言いまわしは戻っていくべき港ではない

中村真一郎はそんなふうに思っていたのではないか?

 

今の日本では

マチネ・ポエティックの詩人たちのことは

完全に忘却されているが

中村真一郎と親しかった小説家の福永武彦の韻律詩は

神保町の古書店ではじめて目にした時

韻律と内容へのその見事な目配りに驚かされた

ずいぶん貴重な試みに

彼らはじつは挑戦していたのだと気づかされた

 

中村真一郎といえば

わたしの薄い「駿河昌樹詩集」を編集し

デザインや紙選びや装幀をしてくれたばかりか

ぜんぶ自費で出版してくれたアートディレクターの藤本真樹さんは

歳もずいぶん違うのに中村真一郎と知りあいで

だいぶ歳を取ってからの中村真一郎が

ときどきパリに遊びに行って

公園のベンチに寝転んで休んだりしている

などという話を教えてくれた

 

藤本真樹さんは

1970年代や80年代は

「じゅわいよ・くちゅーるマキ」などの

テレビCMづくりなどでしこたま儲けたらしく

本当か嘘か知らないが

ゴダールにも作らせたとか

中上健次や村上龍や村上春樹もよく知っているとか

いろいろ聞かされたが

外苑前のバー「ハウル(HOWL)」や

カフェ「詩人の血」をプロデュースしていたのは

わたしも実際に見ていて

「ハウル」ではよく

わたしも詩の朗読会をしたり

アントナン・アルトーやボードレールのレクチャーをしたりした

(株)ワールドの一環のヒップスターテイストのショップ

TOKYO HIPSTERS CLUB(THC)を裏原宿にも開き

そこでも詩の朗読会をしたものだったし

大きなパンフレットには

わたしの長い詩を英訳付きで出してくれたものだった

 

このTOKYO HIPSTERS CLUB(THC)オープン時点の

彼の自己紹介は

次のようなものになっている

 

 藤本 真樹  Maki Fujimoto
VAN JACKET
宣伝部を経て、1980年、宣伝制作会社HEAVEN設立。
1983
年、学研より発行の雑誌「エッジ」の編集長/アートディレクター。
NY
ART&COMMERCEのマネージメントによりGUESS JEANS全米キャンペーン担当。
London
CAMILA LOWTHERのマネージメントによりHAKKET社などのアートディレクションを担当。
日本においては、株式会社ワールドの顧問アートディレクターとして新規数ブランドのクリエイティブディレクションを担当。
2005
年秋、TOKYO-HIPSTERS-CLUBをオープ

 

「ハウル」の伝説的なバーテンダーで

わたしにはいつもただでカクテルを出してくれていた

デニーさんを援助して

梅酒「星子」の製作を裏で支えてもいた

https://www.drinkplanet.jp/bartenders/view/26

 

1990年代の半ばから2000年代にかけて

表参道で彼と会って

いつもなにかしらランチやディナーを奢ってもらう時は

彼は重いルイ・ヴィトンの鞄を提げていて

いつも愛車のジャガーに乗ってばかりいるものだから

運動量が足りずに

ちょっと歩いただけでもすぐに息切れしていたが

あれからだいぶ経った今

もう連絡も取らなくなっているが

どんな健康状態だろうか?

 

「僕は或る高原の宿で中村真一郎さんと泊り合せました」

と神西清が言う「高原」とは

たぶん軽井沢か

その近くのことではないだろうか?

 

フランス文学者の平岡篤頼先生は

夏になると

軽井沢の別荘に避暑に出て

学生たちを呼ぶこともあったが

散歩に出ると

よく中村真一郎と会ったりする

とのことだった

 

軽井沢といえば

大学生の頃に先輩だった大学院生のひとりが

堀辰雄の未亡人の堀多恵子と親しくなって

よく軽井沢に行って話を聞いていた

マラルメ研究者で

いつもパイプを燻らせている趣味人だったが

それほどマラルメが読めている感じでもなかったし

あまりひろく文学に通じているふうでもなかった

 

一度下宿にお邪魔したことがあったが

大ファンだという松田聖子の大きなポスターが

壁に貼られていて

マラルメとはずいぶん違うものだ

と驚かされた

 

ともあれ

授業が終わるともなれば

大学の廊下が

煙草を吸う学生たちでいっぱいになり

さすがに葉巻はめったに目にしなかったものの

パイプを咥えた先生たちや

大学院生たちも校舎から校舎へと行き来していた頃は

やはり風景としては懐かしい

 

煙草が肺に悪いとしても

秋の午後や

暮れがた迫る頃に

あちこちで紫煙や白い煙がゆくりなく漂うのなど

それだけでも

趣のあるものだった