ひかりにむかう
もの
思いみよ
とりどりの色の
域にふかく
ふかく
引き込まれて
いく
いく
魚だったあなたよ
ひとやめて
ほわん ほわんと
しちゃいなよ
もう
もう
もう いいの
いいんだよ
ほわん ほわん
魚だった
あなた
[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 71 (1998年2月)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
ひかりにむかう
もの
思いみよ
とりどりの色の
域にふかく
ふかく
引き込まれて
いく
いく
魚だったあなたよ
ひとやめて
ほわん ほわんと
しちゃいなよ
もう
もう
もう いいの
いいんだよ
ほわん ほわん
魚だった
あなた
[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 71 (1998年2月)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
手紙書き職人になればよかった
わたくしの書きものには読み手がおらず
そんなものだとわたくしは持ちこたえても
哀しいかなや 文字たちは
さめざめ さめざめと泣くのです
読まれないわたしたちを書いて……と
さめざめ さめざめと責めるのです
ああ 春が来たらことしは
あの文字もこの文字も連れて
やわらかな青空の浜辺まで行こうか
まだ泳ぐには冷たくても
裸足で水遊びして駆けまわれるだろう
あの文字もこの文字もはしゃいで
わたくしに書かれた不幸をひととき
忘れてくれるかもしれないじゃないか
[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 71 (1998年2月)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
つかれたからだを横たえながら
眠らぬ青い宝石のはなしを思い出した
さらわれてすてきに
レンズコーティングされた双眼鏡などたずさえて
戻ってきた隣の子は無言に
ひと秋を過ごしてしまったとか
ああ ふかいつかれ
浮かんでくる色あざやかな風景
いつのまにか
空気もさびしくなった
ひたひたと
肌はどこまで透いていくだろう
[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 71 (1998年2月)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
死んでしまっている人が動いている
死んでしまっている人のヴィデオ
コップなんか持って
小さなパーティーのおわり
テラスで日の出を待っている
そよ風が海から吹くのか
前髪がわずかに揺れる
だんだんと明るくなって
日の出はすてきなオレンジだ
死んでしまっても人は動いている
死んでしまってもオレンジ
死んでしまっても日の出
[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 71 (1998年2月)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
なぜこれほどつまらないのか。
教えてください。
ありきたりのはなしばかりの、ともだち。
先生たちのあのさえないネクタイ。
えらぼねの張った政治家。
詩はあたまのよさを競うばかり。
映画はかってに現代をきどっている。
本、多すぎる。
恋人。けっきょく、あきる。
からだはつかれ、つかれ、つかれ、つかれ、
天国だって、太って脂ぎった連中にとられた。
地獄だって、チェーンふりまわすにいちゃんたちのもの。
ボードレールさん。
あなただって、つまらない。
あなた、古典だもん。
あなた、秀才ちゃんたちの商売道具。
ここでなければ、どこへでも。
そんなあなたのことばが、
ちり紙交換のおやじの仏頂面に負けている。
ああ永遠。
夕暮れのあじあの埃、うらさびしい、
路地ゆくちり紙交換の
おやじ。
永遠おやじ。
[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 71 (1998年2月)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
ビニールのむなしさが美しい
それで包むと
死体もちょっとした
クリスマスプレゼントだ
*二十代前半までに親しかった友人たちは、みな 死んだ。自殺11名。事故死2名。病死1名。 ジョンは事故死。もうだれもいない。ぼくの世界は死者ばかりだ。
[初出]NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30日)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
死んだ友が出てきて
どうしても
冷蔵庫になりたいといったんだ
きみ つまみ食いしようとして
真夜中こっそり開けたろ?
それだよ
[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30日)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
見えているという盲目を脱いで
ついに落ちてこなかった
怒濤の海水一滴の捜索
空の青は刃物ではない
書物だ
あんな大きな青紙を仕入れて
一滴の海水を誘惑しようと企んでいた
時空の若書き
[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30日)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
ぬるりぬるりと
切れ目のない波をすくってきて
ほら
ここに死になさい
誘惑してくれるやさしい昼に
会うまでは
もどらないからね
かあさん
会ったら
もどれないからね
かあさん
[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30日)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
トラがきたら
すっかり殺されてしまおう
密林はぼくより
ぼくだ
[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30日)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
ジョルジュ・サンクにもリッツにも
飽きた
秋田犬
来たる
ぽんた、ってんだ
よろしく
[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30日)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
地図は糸くずになっていく
じんるいは
いまではこんな山頂のぼくだけだ
地球がまるいなんて
うそじゃないか
宇宙とのあいだにまるい
細胞膜を持っていただけじゃないか
ああ この宇宙の暗さが
ぼくを支えていたのだ
[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30日)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
かわいた土地はいなか娘の頬のようで
かわいいと思う
十字架がぽつぽつ立っていれば
村もちかい
このあたりの水はうまいかな
えんぴつをきのうの少年にあげて
しっぱいだったかも
剥げかかったこの十字架の名前を
あと十年は保つようにしてやれるんだが
[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30日)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
ハイウェイに寝ると
宇宙にもどれる
上と下の意味をずっと
忘れていたな
雑草がどんなに動物ににてるか
忘れていたな
ほこりはぼくを追い出そうとしない
あたたかいやつだ
生きるべき場所をさとるってのは
まったく、やれやれだ
もどってきたのかな
これでいいってことかな
[初出] NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・フリッソン) numero 36 (1995年7月30日)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
ぼくは、自分に物語してるのではないか。
田中小実昌 『寝台の穴』
ひさしぶりに
萩原朔太郎の「こころ」を
読むと
いいなあ
詩だなあ
こういうのが!
こころ 萩原朔太郎
こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。
こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。
こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。
この詩のあちこちの
印象や意味あいの
流れも
もつれも
みな
すっかりこの詩そのものに
回収され切っていて
さびしさも
悲しさも
ももいろに
うすむらさきに
音なき音して
ふたり
旅人して
朔太郎は
けっこう無教養な人だったらしいが
雑誌「表現」の1949年7月の第二巻第六号で
釈迢空、神西清、日夏耿之介、三好達治らが
こんな話をしている
日夏 萩原は好きだった。
三好 そうなんだ。あの人は特殊な人だから、
日夏 躓きになっているけれども、あいつはかなり仕事をしていたよ。
三好 随分間違いやでたらめをいう人だが……。
日夏 そんなことは構わないのだよ。
三好 生活も随分あとの方はでたらめだったようで、
日夏 前橋に行くと、萩原の馬鹿息子といわれていた。
神西 萩原朔太郎という詩人は、
日夏 そうだ。自身何かやっていたようだね。
神西 ギターを弾いたはずですね。
日夏 非常にナイーヴな男なんだ。
神西 音楽的な思考という点では、近来めずらしい人だったと思います。
三好 いや怪我の功名という点で……。しかし、
日夏 何も知りやしない。失礼でも何でもないよ。本当だ。
神西 「恋愛名歌集」など、
これは
ネット上で見つかる
Cogagacco(こががっこ)さんのnoteの
「わたくしの【萩原朔太郎】研究2022」に紹介されていた
『折口信夫対話集』(講談社文芸文庫)
この本はわたしも持っているのに
ここの部分はまだ読んでいなかった
折口信夫の一番弟子だった加藤守雄先生には習ったことがあるので
大げさにいえばわたしは折口信夫の
いちばん末端の孫弟子に当たるともいえるかもしれないが
細い線で関わりのあるこういう人たちは
大きな軌道の惑星や遊星のように
ときどき接近して来ては
また遠ざかっていく
この座談では
日夏耿之介がこんなことも言っている
「いつか僕と佐藤春夫と堀口大学と三人で、
時代は
堀口大學の方向へと向かい
文語使用は
一部の短歌や俳句ばかりになった現代だが
文語というと
萩原朔太郎が晩年
文語に回帰してしまったのが
思い出される
日夏耿之介といえば
詩人で翻訳家で早稲田大学教授の窪田般彌先生から聞いた話が
忘れがたい
戦前戦中は早稲田大学で教授をしていたが
戦後の1952年には
青山学院大学で教授となった日夏耿之介は
それでもまた早稲田大学に講師として来ることになった
ところが
新学期が始まって何週間経っても
出講してこない
体調が悪かったらしいのだが
ある週に
ついに御出講ということになった
有名な詩人でもある英文学者で
かつアイルランド文学者でもあり
フランス文学やイタリア文学にも視野を広げており
オカルティズムや悪魔学や
象徴主義やロマン主義にも通じているとあって
たくさんの学生が教室に集まっていた
日夏耿之介先生
教卓に付かれ
さあ
どんなことをおっしゃるかと
学生たちが固唾を飲んで待つと
おもむろに
片手を頭に持って行き
「余は、脳が痛む……」
と嘆息された
ただそれだけのことなのだが
文科の学生たちの尊敬措くあたわざる日夏耿之介先生の
「余は、脳が痛む……」
というこの言葉に
教室を埋めつくしていた学生たちは
おおおおおおおおおお……!
となってしまったそうな
窪田般彌先生の面白いところは
こういう場所で
「なんせ早稲田の学生はバカですからね」
と合いの手を入れるところ
面白いといえば
窪田般彌先生によれば
昔の早稲田の文科の学生たちには
外国文学に通じているふりをする奴も多くて
「やあ、アーサー・リンバウドは凄いなあ」
「なあに、やっぱり今はアンドレ・ガイドだろう」
などという会話を平気でしていた
なんのことはない
アルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud)や
アンドレ・ジッド(André Gide)を
英語風に読んで平気で知ったかぶりしているのだから
「なんせ早稲田の学生はバカですからね」
ということになってしまう
こういう窪田般彌先生は
わたしが大学院の修士課程に入った初日
居並ぶ教授たちとの初顔合わせの
ちょっと気まずい雰囲気の仏文資料室の中で
ショートケーキを出してくださって
「ほら、はやく食べなさい」
と言ってくださったのが忘れられない
ところで
先の座談の中では
神西清がこんなことも言っていた
「作詞の仕事が一段落ついた頃、
脚韻にこだわらなくてもいいように思うが
詩人たちのこういう悩みや試行錯誤を目にすると
万葉集のあれらの歌が皇族の前で詠唱された頃を想像したくなるし
藤原定家や藤原良経や後鳥羽院らが
どんな声でどんな抑揚で歌を披露したのか
どうしても思い見ようとしてしまう
江戸や明治に小声で歌うお座敷唄などのほうが
ひょっとしたら日本語には向いているのかとも思ったりする
フランス語のよくできた中村真一郎などは
文学者の詠唱や朗読といえば
アンドレ・マルローの演説のような朗々たる舞台っぷりを
どうしても思い浮かべたものだろう
https://www.youtube.com/watch?
これはフランス古典悲劇のセリフ使いから来るもので
日本でこれをやろうとすれば
どうしても歌舞伎の言いまわしに寄っていってしまうことになる
しかし明治維新以来
必死に歌舞伎的な言いまわしを切り捨ててきた日本詩歌にとって
歌舞伎的な声音や言いまわしは戻っていくべき港ではない
中村真一郎はそんなふうに思っていたのではないか?
今の日本では
マチネ・ポエティックの詩人たちのことは
完全に忘却されているが
中村真一郎と親しかった小説家の福永武彦の韻律詩は
神保町の古書店ではじめて目にした時
韻律と内容へのその見事な目配りに驚かされた
ずいぶん貴重な試みに
彼らはじつは挑戦していたのだと気づかされた
中村真一郎といえば
わたしの薄い「駿河昌樹詩集」を編集し
デザインや紙選びや装幀をしてくれたばかりか
ぜんぶ自費で出版してくれたアートディレクターの藤本真樹さんは
歳もずいぶん違うのに中村真一郎と知りあいで
だいぶ歳を取ってからの中村真一郎が
ときどきパリに遊びに行って
公園のベンチに寝転んで休んだりしている
などという話を教えてくれた
藤本真樹さんは
1970年代や80年代は
「じゅわいよ・くちゅーるマキ」などの
テレビCMづくりなどでしこたま儲けたらしく
本当か嘘か知らないが
ゴダールにも作らせたとか
中上健次や村上龍や村上春樹もよく知っているとか
いろいろ聞かされたが
外苑前のバー「ハウル(HOWL)」や
カフェ「詩人の血」をプロデュースしていたのは
わたしも実際に見ていて
「ハウル」ではよく
わたしも詩の朗読会をしたり
アントナン・アルトーやボードレールのレクチャーをしたりした
(株)ワールドの一環のヒップスターテイストのショップ
TOKYO HIPSTERS CLUB(THC)を裏原宿にも開き
そこでも詩の朗読会をしたものだったし
大きなパンフレットには
わたしの長い詩を英訳付きで出してくれたものだった
このTOKYO HIPSTERS CLUB(THC)オープン時点の
彼の自己紹介は
次のようなものになっている
◇ 藤本 真樹 Maki Fujimoto
VAN JACKET宣伝部を経て、1980年、宣伝制作会社HEAVE
1983年、学研より発行の雑誌「エッジ」の編集長/
NY/ART&COMMERCEのマネージメントによりGUES
London/CAMILA LOWTHERのマネージメントによりHAKKET社などのアー
日本においては、
2005年秋、TOKYO-HIPSTERS-CLUBをオープ
「ハウル」の伝説的なバーテンダーで
わたしにはいつもただでカクテルを出してくれていた
デニーさんを援助して
梅酒「星子」の製作を裏で支えてもいた
https://www.drinkplanet.jp/
1990年代の半ばから2000年代にかけて
表参道で彼と会って
いつもなにかしらランチやディナーを奢ってもらう時は
彼は重いルイ・ヴィトンの鞄を提げていて
いつも愛車のジャガーに乗ってばかりいるものだから
運動量が足りずに
ちょっと歩いただけでもすぐに息切れしていたが
あれからだいぶ経った今
もう連絡も取らなくなっているが
どんな健康状態だろうか?
「僕は或る高原の宿で中村真一郎さんと泊り合せました」
と神西清が言う「高原」とは
たぶん軽井沢か
その近くのことではないだろうか?
フランス文学者の平岡篤頼先生は
夏になると
軽井沢の別荘に避暑に出て
学生たちを呼ぶこともあったが
散歩に出ると
よく中村真一郎と会ったりする
とのことだった
軽井沢といえば
大学生の頃に先輩だった大学院生のひとりが
堀辰雄の未亡人の堀多恵子と親しくなって
よく軽井沢に行って話を聞いていた
マラルメ研究者で
いつもパイプを燻らせている趣味人だったが
それほどマラルメが読めている感じでもなかったし
あまりひろく文学に通じているふうでもなかった
一度下宿にお邪魔したことがあったが
大ファンだという松田聖子の大きなポスターが
壁に貼られていて
マラルメとはずいぶん違うものだ
と驚かされた
ともあれ
授業が終わるともなれば
大学の廊下が
煙草を吸う学生たちでいっぱいになり
さすがに葉巻はめったに目にしなかったものの
パイプを咥えた先生たちや
大学院生たちも校舎から校舎へと行き来していた頃は
やはり風景としては懐かしい
煙草が肺に悪いとしても
秋の午後や
暮れがた迫る頃に
あちこちで紫煙や白い煙がゆくりなく漂うのなど
それだけでも
趣のあるものだった