2026年1月28日水曜日

一瞬に捏造しているフィクションの継続的じぶん

 

 

 

ものごころついてから現在まで

じぶんの「じぶん感」というかじぶんの意識なるものは

ずっと継続していて

それが

じぶんのじぶんたる所以だとか

じぶんとはこの継続だ

などと

誰でも考えがちになる

 

ところが最近

じぶんの意識なるものは

じつは

思ってきたほど継続していないのではないか?

と感じるようになってきた

 

うすうす

そんなことではないか?

とは思ってきたのだが

最近

じぶんの意識などというものは

それほどちゃんと継続しているものではなくて

かなり断片的なものに過ぎないのに

現在意識が過去を適当に補正して

継続なるものを創作しているのではないか?

と感じることが強くなってきた

 

たとえばわたしは今

腕立て伏せを日に200回から400回やっているが

45回か50回をひと組として

それを日に5回以上組み込むことで数量的な消化をしている

時に応じて

軽々と50回できてしまうこともあれば

45回ほどでちょっと苦しくなることもある

40回ほどまでは楽だが

41回から急に身体が重く感じてくることもある

体調によることもあるが

気圧とか気温とかはかなり露骨に影響するし

地震の動きを予兆できるわたしの場合は

地震の準備のようなものが起こっているらしい時には

はっきりと身体にダルさや眠けのようなものが来る

 

ともあれ

腕立て伏せの一サイクルの最後のほうでは

ちょっとずつ苦しくなるわけで

30数回あたりからは

回数の数字を脳裏に思い描きながら

腕を曲げたり伸したりする

37

38

39

40

41

などと数字を意識の中に浮き上がらせて

最後のほうの回数を消化していく

 

これをやっているうちに

ある時

悟りのように気づいたのだが

たとえば

42

の時のじぶんが

43

の時のじぶんと同じじぶんではないのだ

43

を脳裏に見ながら腕の曲げ伸ばしをするじぶんは

42

の時のじぶんではない

37

38

39

40

41

42

43

と継続されてきた

と思い込んできたじぶんは

どうやら

43

の時のじぶんが一瞬に捏造しているフィクションの継続的じぶんであり

現実には存在していない

 

そう気づいたのだった

 

道元も

時間とはつぎつぎ飛んでくる玉のようなもので

連続しておらず

独立している

といったことを述べていたが

わたしが気づいたものは

彼がイメージしたものにたぶん近い

 

この感覚が正しければ

ずっと継続してきたじぶんなるものは

今の瞬間時において捏造され続けていく当座のフィクションであっ

人間の自我や人格は尊ぶべきほどのものではない

 

これはけっこう大事なことで

もし意識の継続がかなりの程度でっち上げならば

継続にのみもとずく「じぶん」の価値はグッと低下するし

「じぶん」の喪失を重大視するからこそ成り立つ人生の価値も

グッと低下することになる

 

人生の価値の低下はじつは望ましいことであって

死の重大視も減ることになれば

ストレスまみれで生を過大評価することも減ることになる

 





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