ものごころついてから現在まで
じぶんの「じぶん感」というかじぶんの意識なるものは
ずっと継続していて
それが
じぶんのじぶんたる所以だとか
じぶんとはこの継続だ
などと
誰でも考えがちになる
ところが最近
じぶんの意識なるものは
じつは
思ってきたほど継続していないのではないか?
と感じるようになってきた
うすうす
そんなことではないか?
とは思ってきたのだが
最近
じぶんの意識などというものは
それほどちゃんと継続しているものではなくて
かなり断片的なものに過ぎないのに
現在意識が過去を適当に補正して
継続なるものを創作しているのではないか?
と感じることが強くなってきた
たとえばわたしは今
腕立て伏せを日に200回から400回やっているが
45回か50回をひと組として
それを日に5回以上組み込むことで数量的な消化をしている
時に応じて
軽々と50回できてしまうこともあれば
45回ほどでちょっと苦しくなることもある
40回ほどまでは楽だが
41回から急に身体が重く感じてくることもある
体調によることもあるが
気圧とか気温とかはかなり露骨に影響するし
地震の動きを予兆できるわたしの場合は
地震の準備のようなものが起こっているらしい時には
はっきりと身体にダルさや眠けのようなものが来る
ともあれ
腕立て伏せの一サイクルの最後のほうでは
ちょっとずつ苦しくなるわけで
30数回あたりからは
回数の数字を脳裏に思い描きながら
腕を曲げたり伸したりする
37
38
39
40
41
などと数字を意識の中に浮き上がらせて
最後のほうの回数を消化していく
これをやっているうちに
ある時
悟りのように気づいたのだが
たとえば
42
の時のじぶんが
43
の時のじぶんと同じじぶんではないのだ
43
を脳裏に見ながら腕の曲げ伸ばしをするじぶんは
42
の時のじぶんではない
37
38
39
40
41
42
43
と継続されてきた
と思い込んできたじぶんは
どうやら
43
の時のじぶんが一瞬に捏造しているフィクションの継続的じぶんで
現実には存在していない
そう気づいたのだった
道元も
時間とはつぎつぎ飛んでくる玉のようなもので
連続しておらず
独立している
といったことを述べていたが
わたしが気づいたものは
彼がイメージしたものにたぶん近い
この感覚が正しければ
ずっと継続してきたじぶんなるものは
今の瞬間時において捏造され続けていく当座のフィクションであっ
人間の自我や人格は尊ぶべきほどのものではない
これはけっこう大事なことで
もし意識の継続がかなりの程度でっち上げならば
継続にのみもとずく「じぶん」の価値はグッと低下するし
「じぶん」の喪失を重大視するからこそ成り立つ人生の価値も
グッと低下することになる
人生の価値の低下はじつは望ましいことであって
死の重大視も減ることになれば
ストレスまみれで生を過大評価することも減ることになる
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